雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

再婚者・弓浦市/川端康成

「弓浦市」が読みたくて、図書館で借りてみた。
それは、こんな話だ。
来客中の主人公の小説家のところに、30年前に九州の弓浦市で会ったという女性が訪ねてくる。
再会できたことを懐かしがり、当時の思い出を語る。
だが、主人公には全く身に覚えがない。
女性が一通り話し、帰るというのを主人公は玄関まで送る。
二人きりになったときに、弓浦市の女性の部屋で、主人公が求婚し、女性が断ったエピソードを聞かされる。
やっぱり主人公には記憶がない。
女性が帰った後、先客と弓浦市を探すが、そんな地名はない。
何とも薄気味の悪い話だ。
だが主人公は、自分の記憶がなくても、誰かの記憶の中にいる主人公は存在してて、それは今日の女性の弓浦市と同じようなものだ、と思っている。
それもまた、何だか気味が悪い発想ではないだろうか。


他にも「二人」という作品が収められている。
主人公が、夫に連れられて、妊娠の報告に実家を訪れることになる。
主人公は再婚であり、先夫との間の連れ子がいるのだが、嫌がる主人公を尻目に、夫は同行させる。
そこで、夫は妊娠の報告の後、連れ子を主人公の実家に預けたいと言う。
理由は、妊娠によって精神状態が不安定になった主人公がその児を虐待しているからだ、という。
主人公は寝耳に水の話で、全く身に覚えがないと激しく反論するが、それもその兆候のひとつなのだ、と。
まるでそれは、フィリップ・K・ディックの描く悪夢のようなところではないだろうか。
だが話は、雨の中、子供に会いに行く傘に、新姓の名札を見つけ、毟り取ろうとあせる主人公の姿で終わってしまう。
何とも後味が悪い。


「無言」という作品も薄気味悪い。
だがこれは、読んでみたほうがいい。
言葉を失った老作家とその娘、老作家の作品に登場する気のふれた作家志望の青年とその母親、が重層構造になっているのだが、それはクラインの壷のように入れ子になっている。
そしてそれはまた、主人公である作家をも巻き込んだ幽霊譚として、見事な作品だ。


私は、川端康成という作家について、今まで何を知っていたのか、いや、何も知らないでいたのが、ちょっと恥ずかしいとさえ思った。
この本には、正気と狂気の混じりあった薄気味の悪さを、家族というものすごく狭い場所へ捺し込んだような作品が集められているようだ。
どの作品も戦後の作品ばかりであることは、川端康成にとって何らかの意味のあることなのだろうか。
それはともかく、正気と狂気の混じりあった薄気味の悪いものを淡々と描き出すところが、怪異譚として特徴的かもしれない。


再婚者;弓浦市 (講談社文芸文庫)

再婚者;弓浦市 (講談社文芸文庫)