雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

夜なき夜、昼なき昼/ミシェル・レリス


ミシェル・レリスを知ったのは、おそらくこの本だっただろうか。
出版年を見る限り、シュルレアリスム、或いは、バタイユからの流れで名前を知ったのかもしれない。
或いは、「闘牛艦」から辿って来たのかもしれない。
だから、民族学の名著と言われる「幻のアフリカ」は、まだ読んだことがない。
しかし、レリスのこの夢日記は、最初に読んだ時からとても気に入ってしまった。
改めて読み返してみると、この本には詩的なるものがあると思った。
当たり前のことだが、誰かの夢そのものを、ワタシが追体験することはできない。
だから、書かれた夢は、夢の屍骸と言ってもいいと思うのだが、レリスの夢日記には、細かな部分までは判らなくとも、詩的な瞬間が切り取られているかのようだ。
そしてそれが故に、夢というものの本質的なところを突いているように思った。
夢を見たはずなのに思い出せないが、ふとした瞬間にその夢での一場面がありありと蘇ってくるような、そんなリアリティがあるように思う。
それは本当にそれしか思い出せなかったのかもしれないし、最も印象的な部分を切り出しているのかもしれない。
だが、それがどちらだったとしても、どちらでもなかったとしても、この本における夢のリアリティ、すなわち詩的なるものは失われはしないであろう。


夜なき夜、昼なき昼 (1975年)

夜なき夜、昼なき昼 (1975年)


レリスはシュルレアリスムに参加するも、やがて離反、バタイユの秘密結社アセファルに誘われるも参加しなかったようだ。
ジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロンの「シュルレアリスム」、思潮社の「シュルレアリスムの資料」、ちくま学芸文庫の「アセファル資料集」、その名前は幾度となく登場する。
レリスが夢を追求し、そこに求めたものは、初期シュルレアリスム的な、現実を超越しようとする探求を継承しているように思う。