雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ナマコの眼/鶴見良行


この本は労作にして傑作であり、読み応えもしっかりとある。
ナマコを通じて、東南アジアにおける文化の伝播から、海洋民の流れ、大航海時代以降の植民地化、帝国列強の時代、そしてインドネシアニューギニア、オーストラリア、フィリピン、日本、蝦夷、朝鮮と広い地域を巡り、比較言語学的な考察、食物文化史、海賊と奴隷について、アイヌ民族の迫害、と様々な切り口で、東アジア海洋民の姿が描かれる。
もちろん海鼠の扱われ方から描かれる比較文化論的な考察や、そこに働いている経済史的な考察も興味深いのだが、鶴見氏の以下のような主張が印象に残った。
ひとつは、植民地政策の時代に恣意的に引かれた国境が、海洋民の動きを見えにくくさせているという。
干しナマコの生産を調査することで、対中国貿易の流れが、中国南部からインドネシア、そしてオーストラリアにまで広がっていった姿が見えてくるのだが、国家を前提とした世界地図ではその全体像がつかみにくいのだそうだ。
もうひとつは、江戸時代における東アジア交易網に触れ、長崎出島に出入りするオランダ船、中国船がただ単に本国との往復していたのではなく、対中国貿易とそれを取り巻く東南アジア交易の拠点のひとつとして長崎が機能していたのであり、九州、能登蝦夷を繋ぐ交易網の存在から、日本における「日本海」、朝鮮における「東海」という呼称の見直しを考えたほうが良い、という主張だ。
どちらも、「国家」という存在とは別のレベルで、人々は交流し、物は流通しているのだが、地図や名前という形式を与えようとすると、どうもぎくしゃくしてしまうようだ。
それは、まさに言語化という、身体レベルから、思考、そして幻想までを貫いている意味作用に他ならないだろう。
これは鶴見氏の主張が正しいとか正しくないとかという話ではない。
だが、世界地図を逆さまに眺めて見るだけでも、そこには違った世界が見えてくるような気がする。
そんな甘い空想自体をさせてしまうのも、この本の魅力のひとつであるに違いない。


ナマコの眼 (ちくま学芸文庫)

ナマコの眼 (ちくま学芸文庫)


ちなみに、富山県庁が作成した、日本海を中心にした逆さまの日本地図が存在する。
掲載するには申請が必要との事なので、ここではリンクを張らない。
富山県」「逆さま日本地図」といったキーワードで検索すれば、すぐ見つかる。