例えば
この世の森羅万象の全てを知ることが可能か、と考えてみる。
既に、考えるより先に、それは不可能だと思っている。
では、その森羅万象のうち、知るべき事を知るべきなのだろうか、と考えてみる。
だが、知るべき事という言い方そのものの裡に、教育的であったり、政治的であったり、つまり、何かしら思想やら信条やら説教めいた匂いがしてくる。
知るべき事と、知っておいた方が良い事、知らなくてもいい事、そんな序列を作り出そうとする考え方には、嫌な匂いが漂っている。
では、方法論として、全てを知るために効率的なやり方は無いだろうか、と考えてみる。
誰かの考えを借りてくるのが、手っ取り早いだろう。
そのことに詳しい誰かの考えを取り入れ、それで判っているような気になれる。
そうした手立てを繰り返していくうちに、ひとかどの人物になれた様な気にだってなるだろう。
事柄や事象をキーワードで括って、キーワードをに要約を繋げて、キーワードを並べて見せれば良い。
だがそれは、知った事になるのだろうか。
そもそも、森羅万象を知りたいと思ってしまった、その欲望自体が問われるべきなのかもしれない。
不可能であると思いつつも、知りたいと欲望すること。
この本について、そして、坂口安吾について、いまさら何かを付け足す必要もないし、それを語ることで何かしらの欲望を満たすつもりも無いので、書きはしない。
奥付の版数によると、この本を手に取ったのは、高校生の頃だったようだ。
当時の自分が、何を思っていたのか、それは思い出せない。
そして、今読み返してみると、そこには否定のしようの無い考えが詰まっている。
端的に言えば、ステレオタイプ的な日本文化やら、美徳とされる価値観やら、そういった思考停止してしまったものへの違和感であり、自分の生を生きろ、という坂口安吾の肉声が聞こえる。
恐らく、記憶に残っていないほどに、この本の内容に感化され、思考の血肉としてしまったのだろう。
そういった意味では、坂口安吾には出会うべくして出会ってしまった、という思いがしてくる。
しかし、そう言ってしまうことで、何かしら特権的な場所に自分を置きたいのではない。
もし高校生の自分が坂口安吾を知らなかったら、今の自分には至らなかったであろうし、そのあり得ないことを想像することは、何の意味もないということだ。
そして、坂口安吾に出会わない人は、出会うべく必然がない人なのだろう。
つまりそれは、良いとか悪いとか、正しいとか誤っているとか、読むべきとか読まなくていいとか、そういった単なる価値観の問題ではない。
そして、またいつか、自分はこの本は読み返すに違いない、と思っている。
- 作者: 坂口安吾
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2007/06/23
- メディア: 文庫
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この本に収録されているのは、以下の通り。
「日本文化私観」
「青春論」
「堕落論」
「続堕落論」
「デカダン文学論」
「戯作者文学論」
「悪妻論」
「恋愛論」
「エゴイズム小論」
「欲望について」
「大阪の反逆」
「教祖の文学」
「不良少年とキリスト」