雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

「水」戦争の世紀/モード・バーロウ、トニー・クラーク

読み方を誤ってしまい、何だか苛々させられた。
何らかの思想を持って語られるのかと思って読んでいると、なかなかそこにはたどり着けない。
例えば、主張のこんなところが目に付いてしまう。
・条件に合う事例だけを紹介する、合わない事例は出さない
・所々に数値を入れるが、その根拠は曖昧にする
・所々に数値を抜いて、「とても」「大半が」といった表現にする
・貧困と富裕の二項対立の構図を、市民と企業として単純化する(市民は企業を担っているにもかかわらず)
そして攻撃の標的は、コングロマリットであり、小さな政府であり、彼らが人権を侵害していると声高に叫ぶ。
だが読み進めるうちに気づいたのが、これは人文書ではなく、ビジネス書なのだ。
水ビジネスに関する現状の報告であり、そこに価値を見出している、コングロマリット、環境活動家、国際貿易協定といったステークホルダーたちを告発するための本なのだと思った。
これが人文書的に書かれたとすれば、市場経済に対抗する大きな政府を指向する、政治的文献に至るであろう。
つまり、公共財市場経済から隔離し、政治家と官僚によるコントロールを指向するのが望ましい、という主張に至るであろう。
そうではないとしたら、環境活動家の活動成果を列挙するための、プロパガンダとしての文献かもしれない。
不条理な現実は貧しい市民たちに押し付けられ、一握りの富裕層だけが利益を享受している、という二項対立の構図に単純化し、そのヒエラルキーを是正するのが市民活動家の使命であるというような、通俗的なマルクス主義にも似た主張にも見えてくる。
だがそうではない。
この本はビジネス書なのだ。
水ビジネスと言われる経済活動が、台頭しつつあり、その利益享受のために様々なステークホルダーの駆け引きが始まっている、という事例の紹介に過ぎない。
そしてその不条理な現実は、水ビジネスに固有のものではなく、絶えず繰り返されてきたものだし、水の利権を政治的交渉に使うことなど、日本の歴史でも、中国の歴史でもありふれた事象ではなかったのか、と思ってしまう。
もっとも、著者はカナダ人であり、日本の歴史など知る由も無い、ということかもしれない。


「水」戦争の世紀 (集英社新書)

「水」戦争の世紀 (集英社新書)