雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

塩壷の匙/車谷長吉(塩壷は旧字体で表記)

好きか嫌いかと言う前に、読み耽ってしまう小説というのがある。
それは、まさに文章の力なのだと思う。
新潮文庫の奥付の前、初出一覧の後辺りにある、数行の解説でこの本を見つけた。
そこに書かれていた「私小説という悪事」というフレーズに惹かれたようだ。
私小説がなぜ悪事なのか、その意味は判らなかったが、読むほどにぐいぐい引き込まれていく。
本文の中に登場する言い方だと、「自分の中に空井戸を掘って」いくような小説。
この本に納められた各短篇は要約することなどできない。
要約してしまえば、なんてことは無い話なのかもしれない。
だが、「私」が心の中に抱え込んでいる、醜さや挫折、そして「私」を取り巻く家族達が抱え込んでいる同じもの、そういったものに執拗に焦点を当てている。
血縁関係という近しい関係だからこそ、深くて濃い闇がそこにある、と言いたげなようだ。
いや、それは闇とは違うかもしれない。
良いとか悪いとかいうことでもなく、真実だとか虚構だとかいうことでもなく、そう思ったかもしれない、あるいはそう思うかもしれない心の動きが、そのままに虫ピンで留められたかのように、次々と並べられてゆく。
あとがきで車谷氏は、これらの小説を書きながら、「心にあるむごさを感じつづけて来た」という。
「私」の心の奥底を掘っても掘っても、そこは空井戸なんかでは無かったのではないだろうか。
私が「私」だと思っているものは、酷薄でむごたらしい感情の泉であり、同じことは家族達にもあるのだし、そのむごさ同士が家族という狭い関係の中で、不快な音を立てながら擦れあっているという小説だと思った。
読み手の神経を逆撫でするような、まるで肌を紙やすりでザラザラと擦られるような、そんな感じがした。
好きか嫌いかと聞かれたら、好きではない、むしろ嫌いだと言ってもいい、と思うのだけれど、それでも読み耽らせてしまう文章の力はすごいと思う。
その文章の力は、感情の描写だけでなく、主人公が街を彷徨する場面の描写にも現れていると思うのだ。
東京の下町、京都の路地、茨城の結城、それらの町の描写にも、匂いのようなものを感じる。
まだ、もう少し読んでみたい気がする。


塩壷の匙 (新潮文庫)

塩壷の匙 (新潮文庫)

解説は吉本隆明氏。