雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

1984年/ジョージ・オーウェル

あまりにも有名な、SFの古典である。
出版されたのは、1949年だから、60年前に想像した35年後の憂鬱な未来であり、この記事を書いている28年前のあり得べき未来、という訳だ。
オーウェルが想像した、そのままの未来は出現しなかったが、質の悪い冗談のような世界にはなったようだ。
あまり、物語の筋そのものや、その世界観について、いまさら説明する必要も無いだろう。
敢えて言うなら、コミュニズムがその根本とする観念主義を、グロテスクなパロディとした姿と言ってしまっても大きく外れてもいないだろう。
その世界では、権力も反権力も同じ構図であり、その実、反権力は権力に巧妙に仕組まれたグロテスクな管理社会の一部なのだと説明されても、そこには大きな驚きは無い。
この本のタイトルである1984年では、まだ普及していなかったけれども、その10年後ぐらいから爆発的に普及したインターネットや携帯電話によって、この本の想像を越えたレベルで巧妙に管理社会の網は張り巡らされ、平時はもとより、戦争そのものでさえ、情報操作とプロパガンダの競技場が世界を覆い尽くしている。
こうして記事を書くことが個人レベルで自由になればなる一方で、情報は漏れは級数的に増加し、それらは効率良く拾われ、高速かつ正確に分析されてゆく。
たかが1回のクリックは丹念に拾い集められ、あなたがお気に召すのは、こんな物ではないでしょうか?と薦めてくる。
リアルな世界と同じようにヴァーチャルな世界が構築され、ビッグブラザーが出現するまでも無く、情報の網は広く、目は細かくなって、管理されていることを意識させないぐらいに巧妙な権力が、あちこちに見え隠れしているようだ。
この場合の権力とは言うまでも無く、政治権力、行政権力、警察権力といった公的な権力機構だけでなく、意思と意思とが闘争するフーコー的な権力であることは言うまでもない。
だから、この本の三部構成のうち、現在でも読むに耐えるのは、第三部のみかもしれない。
第一部の、あらゆるところで監視され、人々の心は操られている社会は、既に巧妙さにおいては現実の方が上回ってしまった。
第二部の、権力と愛、といった二項対立も、マンガかコントの設定ぐらいにしか、眼にしなくなっただろう。
第三部でのオーウェルの思考は、個人の個人たる所以を巡る考察であり、コギトを越え、他者に対する信義側を以て個人の存在意義を認めようとしているようだ。
ここで連想されるのは、エマニュエル・レヴィナスの、常に他者に対して有罪である私という存在、の思考であろう。
だが、意地の悪いことにオーウェルは、そんな私という存在に、敗北を宣言させ、物語を終わらせてしまう。
一言で乱暴にまとめると、不幸にも退屈な物語になってしまった本なのだ。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

訳者が違うのもあるようだ
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)