雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

経済学・哲学草稿/カール・マルクス

そういえば、一時期は「資本論」も全巻持っていたっけ。
だが、読み通した覚えは無い。
この本も読んだのか読んでいないのか定かではない。
たぶん、柄谷行人の「マルクスその可能性の中心」辺りでも読んで、買ったのかもしれない。
ともあれ、読み返してみたのだけれど、陰鬱さばかりが目に付いてしまう。
どうにか読み違えようとするのだけれど、断定と偏見の積み重ねで、読み通すどころか反発し、眠くさえなる。
そうだ、ルサンチマンと言う言葉が相応しい。
労働者と資本家がいて、労働者は自分がやりたくも無い仕事を、生活のためにやる。
過剰な労働力の提供は、市場価格を引き下げる。
価格が引き下がると、資本家は自らの利益確保のために、労働者に支払うべき賃金を引き下げる。
生きてゆくために働いているのに、働けば働くほどに生活が苦しくなる。
何だかおかしな理屈だ。
前提として、画一的な労働者の、いわば「群れ」とでも言いたげな視線が窺える。
だが、その後、私有財産、価値交換、分業となると、それぞれの人間は別の価値を持ち、互いの余剰を交換し合う。
余剰を交換するなんていうことがあるだろうか?
ある人にとっての余剰、すなわち無価値なものが、別の人にとっての必要財と言うことか?
例えば、医療は医者にとって余剰だから市場に提供し、それを必要とする人間が買うのだろうか?
例えば、映画は余剰なのだろうか?
何かがおかしい。
マルクスの射程にあるのは、第一次産業第二次産業までだろう。
だが、そんなマルクスでさえ、貨幣の魅力には抗えないようだ。
貨幣の章では詩まで引用し、愛さえ語ってしまう。
マルクスの理論には全くついていけないが、そんなマルクスをもってして愛を語らしめる「貨幣」なる存在が気になる。
栗本慎一郎バタイユを持ち出すまでも無く、そこには呪術的な魅力があることを、マルクスは語らずに語っているようだ。

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

持っているのは岩波文庫版。しかもパラフィン紙カバー。懐かしい。
経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)

最近、新訳も出たらしい。