プラトンの対話篇の中でも、この本もまた苛立たしい。
ソクラテスがソフィストのゴルギアスを訪ね、弁論術とは何かと議論を吹っかける。
ゴルギアス自身が弁論術が説得のためのテクニックであると説明しているにもかかわらず、ソクラテスは「政治術の一部門の影のようなものだ」と断じ、真善美の系列には無いものだと論点をすり替える。
その挑発に乗ってしまったポロスは、ソクラテスに散々にあしらわれる。
見かねたソクラテスの友人のカルリクレスが議論を引き取って、今度はソクラテスに散々語らせる。
弁論術の話はいつの間にか、アテナイの愚衆政治批判へ移り、ソクラテスの死刑判決の予感、そして死後の国の物語を経て、魂の救済へと話は転々とする。
振り返ってみれば、ポロスを扱き下ろす辺りから、ソクラテスの言動が怪しい。
ゴルギアスに対してはあった、議論相手への礼節は吹き飛んで行き、イデア的なるものへの固執が透けて見えてくる。
プラトンの著作におけるソクラテスの描写には気をつけなければなるまい。
そこには、プラトンが作り上げた虚像がしゃべり出している時間がある。
結局のところ、弁論術がアテナイ人たちを堕落させた、そしてその堕落した人々によって死を宣告されようとも、真なる魂の価値は減じないだろう、と主張したいようだ。
果たしてこれが、どこまでがソクラテスの主張なのだろうか。
そもそも、弁論術とは技術であり、魂の救済など無縁なのだし、善き人が使えば善き結果をもたらし、悪しき人が使えば悪しき結果を招くだけのことだ。
真理とは何か、というレベルの問いに対する答えではなく、「とは何か」という問題系を扱うための、云わばメタレベルの技術であろう。
だが、この本におけるソクラテスという仮面を被ったプラトンにとって、メタレベルの問いは容認しがたい。
あらゆる問いは真理かそうでないか、という解決がされねばならないからだ。
ソフィスト達がアテナイ人を堕落させたのでもなければ、堕落したからソクラテスに死を宣告したのでもないだろう。
むしろソクラテス的(というか、むしろプラトン的?)な真理の探求者は、ある共同体にとってプラスをもたらすのか吟味してみれば、答えは自ずと見えてくるだろう。
- 作者: プラトン,加来彰俊
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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