雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

カンバセイション・ピース/保坂和志

この本は、記憶と視覚についての小説だと思った。
あるいは、家と猫と横浜ベイスターズについての小説と言っても良い。
起承転結で表される大きな物語構造はほぼ無いに等しいのだが、登場人物たちの会話の中に畳み込まれている。
だから、一見すると何も起こらない退屈な小説ようなのだけれど、会話を丹念に追っていくと何も起きていない訳ではない。
その話の内容は、世田谷の古い一軒家に住む小説家の主人公の思い出話と、主人公を取り巻く登場人物たちとの会話であり、家の中をのし歩く猫たちの行動と、ほぼ唯一の外出である横浜ベイスターズの試合(というより、野次か)である。
従って、要約することには、何の意味もない。
低い音で通底しているのは、記憶は物に依存するということなのではないだろうか。
そして、カバー写真が佐内正史氏だったことに気付いて驚いた。


カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)


ようやくトンネルを抜けたように、本が読みたくなってきた。
いったい何だったのだろうとは思うが、ココロにだって晴れもあれば曇りも雨もあるんだろう、という比喩で納得しておこう。
久しぶりのこの本を読み返していくうちに、うまく抜け出れたようだ。
この本を手に取ったのはいつだったかと、挟まっていたレシートを見ると、もう5年前だった。
このブログを見返してみると、確かに2008年7月に読んでいる。
購入した本屋は、大分前に無くなってしまった。
どんな気持ちでこの本を手に取ったのか、それももう忘れてしまった。
当時の短い記事からは、この本を読んで何を考えたのかも推し量れない。
だが、今と同じようなトンネルにいたような気が、何となくする。
時間と成長が比例するなんて、誰かにとって都合のいい言い訳に過ぎないし、そんな発想にはセンスのかけらも無い話なのだが、どうやらそのことに納得し切れない歪のようなものが次第に溜まっているのではないかと思った。
直線成長モデルの胡散臭さが、近目でも遠目でも、このところやたらと目に付いて息苦しい感じがしていたのだけれど、それを振り払うための逡巡に時間をとられていたようだ。
だが、今までだって、これからだって、うろうろと彷徨って、たまにはぶつかったり躓いたりして、それでも本だけは読み続け、読んだ本のことをボソボソと吐きだしていくことは、やはり変わらないようだ。