今まで、小林一茶のことは避けてきた。
代表作として知られている
「やれ打つな蝿が手をすり足をする」
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」
といった句が、好きではないからだ。
そこには洗練さというよりは滑稽味に俳諧として本意があるのだろうけれど、それが上滑りしてしまっているように思った。
蝿や蛙に事寄せて、自らの姿を戯画化しようとしているようなあざとさが見えるような気がした。
なのに、偶然にも古本屋でこの本を見つけて数頁立ち読みし、卜部兼好の「徒然草」と迷った挙句に選んでしまった。
「徒然草」は高校の頃に買ったアンチョコの全訳を持っているからだ。
ともあれ、あまり期待しないで読み始めてみたのだけれど、ぐいぐい引き込まれてしまう。
「父の終焉日記」は、まさに帰郷した一茶が、実父の死に立ち会ってしまう。
肉親だからこその感情のもつれや、継母や義弟との諍いが綴られる。
死ぬか生きるかの瀬戸際にあっても、家族とはこのようにあるものだな、としみじみさせられる。
私小説のはしりだとの評価もあるようだが、小説という概念が無い江戸時代の作品なのだから、似ているだけで異なるものだ。
であれば、父の最期を看取ること、そしてそれを綴ることに、小林一茶の本意はどこにあったのか、と考えてしまう。
本文に綴られるのは、実父への追憶である。
「おらが春」は、幼くして亡くなった娘への追憶である。
どちらにも共通しているのは、亡くなった者への追憶であり、仏教的な無常観が間に差し込まれる。
家族を失うことの喪失感から、記憶の記録のために書いた、とも考えられるだろうか。
しかし、「父の終焉日記」で描かれる継母や義弟の姿は、判り易く戯画化しているようだから、純粋な記録ではなく、そこに物語を現出させようとする意志が働いている、と考えた方が良いだろう。
そして「我春集」は俳文と発句を集めたもののようだ。
やはり読み進めてみても、そこにはセンチメンタリズムしか、見いだせない。
- 作者: 小林一茶,矢羽勝幸
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/01/16
- メディア: 文庫
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