雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

Boys And Girls/浜崎あゆみ

車で流していたCDにこの曲が入っていた。
ちょっと懐かしい感じもしたが、それ以上に、改めて歌詞に聞き入ってしまった。
特に幾度も繰り返されるサビのフレーズの意味がどうしても理解できないのだ。
反語表現によって、「僕ら」を遮ることが出来ないことを、高らかに宣言している。
挑発的であり、ある種のアジテーションとも取れるだろう。
だが、誰を挑発し、何を推し進めようとしているのか。
「輝き」とは一体何なのか。
恐らく提喩という種類のメタファーなのだろうが、何を意味しているのだろうか。
判ったようで判らない。
もし、これは倒立した比喩、つまり例えば、LEDのように輝いている僕ら、とした場合の「LED」を使うのではなく、「輝き」を使ったとするなら、僕らが発光体として生きることを止めることは出来はしない、ということだ、
言うまでも無く、ここで言う輝きとはそういった物理的な光のことではないだろう。
だとすると、心理的、情緒的な輝きに他ならないのだが、一体何をアピールしたいのかは明かされはしない。
さらに難解なのは、「彼ら」に関する記述だ。
彼らについては、羽ばたきを強制的に抑圧されるという事実関係に対する、権利闘争があったようなのだ。
そして、その権利闘争が過去形で語られることから、彼らは敗北したということが間接的に判明する。
言うなれば、鎮魂歌、レクイエムといったことだろう。
しかし「羽ばたき」とは一体何のメタファーだろうか。
そして、彼らの羽ばたきを抑圧する謎の存在とは一体何なのだろうか。
謎めいたフレーズは何度も繰り返され、アジテーションとレクイエムが交互に、そして高らかに唱えられる。
Aメロ、Bメロで記述されるのは、曖昧な幸福感やその裏返しであろうと思われる言いようの無い不安感だ。
それ自体は沈思黙考されることもなく、解決策も提案されはしない。
ただそこに提示されるだけだ。
そうして、全体に言えることは、ここにはワタシもアナタも、輪郭は曖昧なままに僕らや私達という皮膜の中に閉じ込められている。
その皮膜には曖昧な幸福感と曖昧な不安感が充満し、明日という方向に押し流されている。
一方で、彼らは権利闘争に敗退してしまっていることから、僕らはアジテートはするけれど、きっと権利闘争は行わない。
独白しているワタシは、羽ばたきと輝きは似ていると思っている。
曖昧な不安感は、彼らの受けた抑圧に起因しているのかもしれない。
だが、僕らは根拠も無く、約束された明日を迎えることを確信している。
曖昧な輪郭を持つワタシと曖昧なアナタは、僕らという皮膜の中からアジテートし、権利闘争に敗れた彼らにレクイエムを捧げる。
一体何の話だ。
少年少女の話だ。



Boys&Girls

Boys&Girls