雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

漢字/白川静

懸賞で貰ったQUOカードが余っていたので、買ってみた。
2014年にはじめて買う本が白川静氏となり、ちょっと幸先が良さそうだ。
何の根拠もないが。
さて、この本の内容はというと、白川漢字学のエッセンスである。
岩波新書という、ある種のフォーマットの中に、白川漢字学の世界が、コンパクトに纏められていると言って良いだろう。
新書と侮れないほど中身が濃い。
話は逸れるが、昨今の新書は、ページ数が多くなり厚くなった割に、中身の薄いものが多い気がする。
十把一絡げに論じるものでもないが、黄色や緑の岩波新書と、昨今の各社の新書を読み比べてみるとどうだろう。
それとも良書に当たっていないだけだろうか。
話を戻すと、この本では漢字に籠められている古代中国の呪術的世界が、白川氏によって明らかにされていく。
これは私の浅学さゆえなのかもしれないが、今まで、中国文学における幻想というもののあり方が、西欧のそれとは異なることが気になっていた。
西欧文学にとって、異端としての幻想があるのに対して、中国文学に異端というものがあまり見当たらない。
ノーマルとアブノーマルという関係が、中国の詩歌の中にあまり見えない。
中国文学の影響を受けた日本には、中世の説話集、近世の伝奇小説や怪談集といったところに幻想は現れる。
しかし本家の中国文学では、「聊斎志異」ぐらいしか思いつかない。
白川漢字学を知るほどに、古代中国の世界観は呪術一色に塗りつぶされていたことを思えば、非日常としての幻想なんて意味がないのだと思った。
つまり、日常が幻想的世界であり、非日常は徳に満ちた賢人達の高邁な世界なのだろう。
そう考えると、中国が理解できるだろうか、そんなことを思った。


漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)