この本はおそらく口述による本だろう。
子供向けというほど子供向けでもないが、比較的平易な言葉で語っている。
13歳だった自分がこの本を手に取ったかと言うと、そうは思わない。
では、その頃の自分の周りにいた誰かがこの本を薦めただろうかと言うと、それも考えにくい。
やはり、吉本隆明には、遠回りしてたどり着いたことだろう。
それが無駄だとは思わないが、そういう類の本はあるのだと思う。
この本の内容も、そういう遠回りな内容かもしれない、と思っている。
なんら難しい観念を操作するような内容ではなく、むしろ正面からそれはこう、あれはこうと言い切っているのだが、それを無条件に受け入れることに些かの躊躇いがある。
この本で語られることは正論だし、何ら否定する気も無いのだが、それでも躊躇うことはどういうことなのか。
しかし、しばしばフーコーが引き合いに出されるあたり、どうもそう遠くない場所にいる様な気がする。
この本もまた図書館で借りた。
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2012/08/10
- メディア: 文庫
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なぜ躊躇っているのか、バイクで走りながら考えてみたものの、今ひとつこれと言う答えは無い。
だが、自分にとって吉本隆明の著作を読むということは、父性に接するような体験だったのではないか、それが、何となくトーンダウンしてしまったように感じているのではないか、とも思った。
吉本隆明に理想の父親像を映しているということだろうか、とも思うが、それが本当かはよく判らない。
ともあれ何らか期待するところがあったのは間違いなく、それは母性的なものではないのだから、父性と言ってみているだけかもしれない。
では、この本はトーンダウンしてしまっていたのだろうか。
むしろ、みっともないとか、どうしようもないとか、言い切っているようにも見える。
以前にも書いたことがあるが、歳を重ね、老いてゆく吉本隆明の言説は、思考の最先端なのだと思っている。
人が老いてゆく中で、吉本隆明のような判断力を保っていられるのは、果たしてどれぐらいいるのだろうか。
80歳を超えて、フーコーや親鸞について語ることが、果たして自分にできるのだろうか。
吉本隆明のいた最前線の場所には、まだ距離があるように思う。