図書館で眼に留まった。
ぱらぱら捲ると、アイヒマン裁判の傍聴記が入っていたので借りてみた。
この本は、アイヒマン裁判中のイスラエル、核実験後のモスクワ、そして東ベルリンから西ベルリンへの移動、アルジェリア紛争中のパリ、そしてサルトルとの対談が含まれている。
正直なところ、開高健の社会問題への意識や、その論旨にはついていけなかった。
恐らく信念や責任感から来るのだろうけれど、結局のところ、市民という存在に対する無批判な受け入れや過信が、ドグマティックにさえ見える。
アイヒマンに対する冷ややかな目線は、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」と言うところとは、似て非なるものの好例かもしれない。
とは言え、そこで開高健が振り上げた拳は、どこにふりおろしたのだろうか。
いや、開高健は何に怒っているのか。
アイヒマンを悪人に仕立て上げようとする検察と、官僚機構の歯車に過ぎないと主張するアイヒマンの攻防が、苛立たしさをもって綴られる。
死刑とは“正義”の仮面をかぶったテロリスムではないのか
この言葉が強く印象に残った。
だが、それを開高健はどんな場所から発言しているのだろう。
言説だけを切り離すととても印象深いのだが、文脈的にどうにも肯んぜないものがあるのだ。
それは、小説家が特権的立場であり、ある程度自由にイスラエルや、ソ連、ベルリン、パリと訪れているにも拘らず、民衆の側に立っているかのように発言している姿なのかもしれない。
その民衆は実体の無い、特権的立場ではない者たちの総称でしかないにも拘らず、それが正しいことであるかのように見せているのではないか、と思った。
- 作者: 開高健
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/01/10
- メディア: 文庫
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