この対話篇におけるソクラテスの奇妙さが気になる。
支離滅裂というか、狡賢いというか。
高名なソフィストのプロタゴラスのもとを訪れたことを友人に話すソクラテスという設定の対話篇である。
「徳は教えられるのか」という命題に対して、ソクラテスは「教えられない」、プロタゴラスは「教えられる」という立場で議論が始まる。
ソクラテスの主張の中の、「A=BならばB=A」という論理的欺瞞を、プロタゴラスは見抜く。
だがソクラテスはそれをはぐらかしてしまう。
ソクラテスの一問一答方式が、物事を単純化しているとプロタゴラスは抗議する。
だがソクラテスは同じやり方でやればよいではないかと開き直る。
シモニデスの詩の矛盾を突いたプロタゴラスに対し、ソクラテスは詭弁ですり抜ける。
ちょっと一歩引いて眺めてみると、ソクラテスはプロタゴラス個人に対してというより、ソフィストという名声ある立場に噛み付きたかったのではないかと見える。
これは、ソクラテス裁判に至る伏線だろうか。
冷静に考えて、「徳は教えられる」と考えるプロタゴラスの方が自然であり、ソクラテスの主張は奇妙なものに見える。
これは自分の主張ではなく、相手と反対の立場であるという主張なのではないだろうか。
持っているのは岩波文庫。
新訳も出ているようだ。