従ってこの「父」とは幸田露伴のことである。
幸田露伴の臨終記ともいえる表題作、その亡き父の思い出を語る随筆である。
幸田文の語り口は、東京の下町の喋りの息遣いが感じられる。
たぶん、言葉使いだけじゃなく、その背後にある物の見方のようなものが、自分の祖父母や親戚、亡き父に通じるものがあるような気がする。
そして、語られる対象の幸田露伴にはまさに、明治生まれの祖父の面影に通じるものがある。
語られる言葉、語られる人となり、それらが個人の記憶や印象と結びついてしまう。
そしてこの感覚は、いずれ誰にも分からなくなる。
その頃には、幸田文はまだ読まれているのだろうか。
SNSで垂れ流されていく言葉と、そこに標準語が移ろってゆくうちに、東京の下町言葉は霧散してしまうだろう。