今までに平野啓一郎を読んだことがあっただろうか。
2005年からの読書記録としてのこのブログには記載は無いが、読んでも書いていないこともあるし、2005年以前に読んでいた可能性が無いことも無い。
この本を読もうと思ったきっかけも良く分からないが、未読本のリストに載っていたので、誰かに勧められたのかもしれない。
この物語は母を亡くした子供の成長の物語であり、AIやSNS、そして近未来の日本社会をめぐる「本当らしさ」の物語でもある。
自由死を望む母を事故死で亡くした主人公が大金をはたいて母のVF(ヴァーチャルフィギュア)を依頼するところから物語は始まる。
そして主人公の母をめぐるモノローグで物語は展開してゆく。
自らの死を決定できる「自由死」という概念だったり、格差の広がった日本社会における職業差別や外国人差別だったりという要素に、作者のイデオロギー面が見え隠れもする。
AIとVRによる故人の再構築というアイデアは、かなり現実的でもあり、故人の本当らしさが依頼した側(この物語では主人公)に問われるというのはその通りだろう。
自分が自分であるように、対峙している相手が相手であることは、結局、自分の認識の問題なのだということは、最後には他者性としてスリップしてしまっているように思った。
世界にただ一人の存在としての自分と同じように、他者もまた世界のただ一人の存在であることを認めるのであれば、VFの母は存在しないことになるのだが、主人公に収入をもたらす存在となってゆく。
主人公が手にした他者、誰かの役に立ちたいと思う誰かとは、関係の中にしか存在しないし、VFの母必要としない自分を見出そうとする主人公にとってそれは本当らしさが失われてゆく。
物語の背景にある格差社会や差別問題は主人公が関係する限りにおいて、本当らしい問題として立ち現れるので、ぼんやりとした物語の背景なのだけれど、逆を返すとそれは作者が紛れ込ませた作者の思考として見えてしまう。
主人公の父探しも主人公の求めている本当らしさの水準に至ることは無い。
既に失われている関係は第三者を介在することでしか存在せず、第三者から語られる父の存在の本当らしさは、結局、主人公の求めている水準には到達しなかったように思える。
母の本心の本当らしさは、母の友人や、かつての愛人関係にあった人から語られる言葉を主人公が判断することでしかないのだけれど、他者性の問題にスリップしてしまっているように思う。
しかし、スリップしなかったら不可能の物語として救いようが無いのだから、それはその方が良いようにも思った。
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