例えば本を読むときに、著者が自分より年上かどうかは気にしない。
面白そうだから読む、面白かったあの本の中で紹介、引用されていたから読む、そんな風に直観と読んだ本を手掛かりに、本の森の中へ分け入っている。
しかしこの読み方では、読んだ本から遡ることはあっても、そこから派生したものには辿り着けない。
過去を批評することはできても、未来を予言することはできない。
そうすると自然と、自分より先達の作家、評論家、学者の本ばかり読んでしまう。
やはり古典が大事と嘯いてみたところで、限られた考えに凝り固まっていく未来が見えてきたので、ちょっと若手の哲学者の本でも借りてみようと思った。
ちょっと前に、ツイッターで炎上してたらしいと聞いてたので、どんなことを言う人なのかと興味を引いた。(炎上した言説そのものには興味なし)
どうやら、2017年以降、著者2人による対談で、お互いの著作を褒め合う内容で始まる。
正直なところしばらく読むのが滞ったが、約半分の辺りから興味深い内容になった。
キャッチーなキーワードとして「権威主義なき権威」というのが出てくる。
対談の中で端的に語られる内容から推察するに、ある種の支配力を及ぼす存在なのだけれど、流動的であり、合議的であり、被支配層から求められる限りにおいて権威であるような存在のようだ。
それは旧来の師弟関係を言い換えているだけのようでもあり、結局、権威主義の温存を図るための偽装のようでもあり、あまりなるほどと腑に落ちる概念とは思えない。
しかし、その概念に関連する現状認識として、コミュニケーションの意味の変容、心の闇の蒸発、といった捉え方はなるほどと納得できるものだった。
確かに、コミュニケーションの重視を喧伝する自己啓発本などもよく見かけるが、その内容は旧来のネゴや根回しのテクニックのことを意味していたりするのは、いつの間にかコミュニケーションという言葉の意味をすり替えられている、という指摘はなるほどと思った。
閉じられた集団の中でうまくやるためのテクニックと、集団の外部との意思疎通の方法が、同じ言葉で表されるのは違和感があるだろう。
また、心の闇が蒸発した、という指摘もまた、なるほどと思った。
ビジネスの世界において、トヨタ由来の「なぜなぜ分析」といった手法があり、発生した事象に対する原因を追究していき、その根本原因に対する対処を立てるといったテクニックがあるが、ここでは全てが合理的であり不条理など存在しない世界観を前提に展開される。
それはあの悪名名高い自己総括と同型の小さな政治権力の行使なのだろうと思うのだけれど、未だにビジネスの世界に根強くはびこっているようだ。
いまや人の心の闇など存在しないことを前提に、ビジネスの世界ではマインドフルネスといった個人の領域を取り込んだ経営を実現しようとする、うすら寒い状況が観測できる。
だからといって、「権威主義なき権威」が有効な思考であるかは判断を留保したい。
総じて別の角度から世界を見るためのヒントとなるキーワードは幾つかあったので、面白い本ではあった。
しかし、脚注は一切ないので、たぶん現代思想に触れていない人にとっては、耳慣れない記号論の用語(シニフィアン、エクリチュール、など)やドゥルーズ、フーコー、アーレントなどの名前が唐突に出てくるので、ちょっととっつきにくい本かもしれない、と思った。
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