雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

現代民話考5 あの世へ行った話・死の話・生まれかわり/松谷みよ子

あの世があるかと聞かれたら、即答でないと答える。

たぶん、あの世という存在は、かつての共同体や人間関係を前提としているのだと思う。

死というものが、無なのではなく、何らかの意味を持っていること、ひいては死すべき存在としての自分たちの生に意味を与えるものがあの世という存在を成立させているのだと思う。

松谷みよ子の名前は児童文学作家としてしか認識していなかったが、ふとしたきっかけで東北大学のオンライン講座を受講した際に、この本の存在を知った。

このシリーズは8冊あるようだが、この本は死にまつわる様々な話を集めている。

現代の民話と称して、様々な口伝や昔語りを集めているのだけれど、どうやら民俗学の流れであるように思った。

民俗学文化人類学の違いは、これらの話の中に普遍的な構造や記号を分析をするか否かの違いのように理解している。

なので様々な話を収集し、分類しておくことは、民俗学なのだろう。

北海道から沖縄まで、明治頃の話から昭和40年代まで、様々なあの世の話、死にまつわる話、生まれ変わりに関する話が収められている。

中には都市伝説として、今でも流布されていそうな話もあるし、時代を感じさせる話もある。

死の話ばかり、単行本で450頁弱のボリュームを読みとおすと、いささか思うところも出てくるので書いておこう。

まずあの世という存在が様々に語られているが、そこは極楽というイメージで伝えられているものに近い。

ということは、世代を超えて極楽のイメージが共有できている社会、共同体において、臨死体験を通じて生還した人の脳が受けた刺激を、言語化、画像化すると極楽のイメージがあるということなのだろう。

睡眠時に見る夢は起きる直前の数分間に組み立てられていると何かの本で読んだことがあるが、同じようなことが臨死体験から戻ってくる人の脳にも起きていて、死亡宣告後も活動している脳が受けた刺激を言語化する際に、共通理解のベースとなるコンテクストとして極楽や花畑のイメージが引用されているのだろう、と思った。

そんな極楽のイメージは、死の恐怖を軽減するために、丹念に何世代も何万年もかけて作り上げられた文化の基底部分なのではないかと思っている。

原始仏教における死は輪廻からの解脱であり、極楽も地獄も語られてはいない。

極楽も地獄も世界宗教とは別の源流があって、洋の東西を問わずに作られていて、それが宗教と結びつく中でイメージされると共に、因果話と結びついていくうちに呪いや祟りといった話に変化もしているのだろう。

先祖、家族、隣人など、同じ共同体の構成員の平穏な死は、共同体の規範に沿っている限り、祟りや呪いは起こしていないように見える。

共同体の外部の力、例えば災害や事故や、あるいは事件に巻き込まれて非業の死が産まれると、祟りや幽霊の話に変化し、それらの出来事の記憶装置の一部になって伝えられているのではないだろうか。

やがて共同体の繋がり、規範が薄れ、都市が広がって行くにつれ、何処かの誰かの因縁話が都市伝説として巷間に流布されるという事象になっているのではないだろうか。

この本を含む「現代の民話」という企画が、柳田国男の「遠野物語」の現代版を目指していたようなのだけれど、読み通して思ったのは「新耳袋」の先駆けのようにも見えてしまう。

この本が出版されてから、もう半世紀近く経った今、日本の中に様々な人種の人が増えて、おそらく異質な文化背景を持った人たちが存在するようになった。

この本に集められた死のイメージは、古い日本の単なる昔話になってしまったのかもしれないと思う一方で、あの世は存在するのか、若い人たちに聞いてみたい気がする。