調べものついでに読んでしまった。
ふだん老子と言ってるこの本は、道徳経というのが正しいということは何となく知っていたのだけれど、前半が道教で後半が徳教というのは、初めて知った。
道徳経というからといって、いわゆる道徳について誰何するということでもなく、前半は「道」について語る章が何となく多いので「道教」なのだろうけれど、後半は「徳」について語る章が多いかと言うとそうでもない。
論語もそうだったと思うが、語られた言葉を拾い集めたようなものだから、特に一貫性もなく、ぱらぱらと端的に「道」が語られる。
ここで著書という概念を当てはめてこういった古典を読むと、違和感を感じざるを得ないが、それは近代以降の概念に毒された読み手の問題だろう。
老子が語っている「道」とは何か、という解説ができるほど読み込んではいないけれど、「道」は語り得ないもの、見ることができないもの、として語られる。
それは人間の知りうる世界の背後に、もうひとつの真実がある、という意味に捉えることもできる。
もっと表層的に捉えると、真実は「ある」という態度だ。
この世界があるのは、全部を知りうることができない大いなる存在が「ある」からだ、という論理は、ちょっと宗教的でもある。
だが、知り得ない、見ることができない、触れることができない、大いなる存在が「ある」と言えるのは何故だろう。
それは「ある」という認識への無限の信頼のように見えるのだけれど、この老子という本を成立させ、残してきた人々の意識のようなものに興味がわいてくる。
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