雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

論語(貝塚茂樹 訳注)

調べ物ついでに論語まで手を伸ばしてみる。

論語儒教のベースのひとつ、ぐらいの認識で、あまりちゃんと読んでなかった気がする。

初めて読んだのは学生の頃だけど、説教くさいというか、ピンとくるものがなかったと思う。

年をとって30才ぐらいの頃に、ビジネス書の一つとして読んでみようとした気がするが、読み通せなかった。

改めて調べ物ついでに、もう一度読んでみる。

細かな訳注は飛ばしつつ、読み下し文のみ読んでいくが、それでも中々のボリュームがある。

論語孔子とその弟子たちの言行録のようなものだ。

語られる言葉は、仁だったり礼だったり、たぶんそういうところが、学生の頃は鼻についたのだろう。

とかく年上のありがたみなんて知らず、社会のしの字も分かっていない子供に、読めるわけがない。

社会人になってそこそこ働くようになったら、論語の言葉は処世術の一つとして読むことができる。

だが20世紀末、21世紀初頭の頃は、規制緩和やら構造改革やら、古いビジネスは改革の名の下に改められる流れだったように記憶している。

だから儒教的価値観の論語の言葉が、すぐ効く処世術として響くこともなく、ただ退屈な気がしたと思う。

そんな論語を改めて今、読み返すと孔子の弟子たちに対する評価と彼らに対する振る舞いが面白い。

最近、時々耳にする1on1やマイクロマネジメントといった、それぞれのパーソナルな部分に踏み込んで対人コミュニケーションを行うやり方だと思った。

自分自身には全く興味もないけれど、世の中には響く人もいるんじゃ無いだろうか、とは思う。

ただ、静的な国家や権力構造静的を前提として、その中で上手くやっていくための共通言語のような考えであり、理想に向けて変革を促すのではなく、あくまで上手くやるだめの知恵という認識がやっぱり拭えない。

実際、儒教四書五経として確立していったものは、中国の歴代王権が利用し、官僚機構を維持するための価値観だったのではないかと想像した。