本棚の配列は難しくて、大きさとジャンルと著者で場所が決まって、著者の中でどう並べるかは迷うところである。
編年順に並べることもあれば、気に入った順に並んでいることもある。
三島由紀夫は気に入った順に並んでいるようで、「金閣寺」はわりと気に入っていたような気がしていた。
思い返すと三島由紀夫の作品を読み耽ったのは、2度ぐらいあっただろうか。
おそらく、20代と30代の頃じゃないかと思う。
だが、かつて片っ端から読んでいたのが嘘だったかのように、いま読み返してみるとどうにも読み辛い。
ストーリーも追い辛いし、レトリックにも馴染めないし、主人公の心の動きも判らない。
これは何の物語なのか、釈然としない。
主人公の告白体で物語は進んでいくが、三島由紀夫の思想の何かしらを表明しているのだろうか。
終戦間際の能登半島から京都に出てくる少年の成長でもなく、金閣寺を放火する悪党のビルドゥングス・ロマンでもない。
言うならば、田舎の小悪党が何もなし得なかった話が、三島由紀夫の底意地の悪い筆致で描かれているようにも思える。
主人公のモノローグに登場し、主人公との対比となるのは鶴川であり、柏木なのだが、この2人と主人公の関係は、同じ平面上にあるようには見えない。
むしろ主人公と主人公以外の対立構図であり、吃音によって世界から聖別された存在だと主人公は思っているが、世界はそう思っていない。
鶴川も柏木も、主人公の吃音は大した問題ではないと思っている。
偉大で、崇高で、美的は存在であるべきなのに、吃音のせいでそうでは無いことに鬱屈しているかのように描かれるが、もとからそこへ至ろうとはしていない。
主人公と世界は対立する存在であり、主人公は世界の外にいて、自ら外に出ているのに、阻害されているかのように振舞っていることを、主人公のモノローグで語らせていくのは三島由紀夫の悪意なのではないだろうか。
何者にもなれなかった地方の小悪党である主人公は、金閣寺を放火はしたものの、自殺も図れず山の上から金閣寺から上る煙を見ながら煙草を吸って
生きようと私は思った
と語ってしまうことで、ようやく対立していた世界と和解し、「金閣寺の放火犯」として、世界の内部の存在になって「生きる」ことにしたのだ。
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