雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

文学と悪/ジョルジュ・バタイユ

他の積読が捗らないのに、久しぶりにジョルジュ・バタイユを引っ張り出して読む。

バタイユを知ったのは、ポルノ小説としての「眼球譚」「マダム・エドワルダ」「青空」といった作品であり、「蕩尽=消費」といったキーワードは栗本慎一郎経由だった気がする。

友達は「無神学大全」にはまっていたけれど、自分も友達も含めて背伸びしたがりの十代の黒歴史と言っても良いと思う。

ようやくバタイユの諸概念を理解したのは三十代になった頃だったんじゃないかと、今になって思う。

それは、「アセファル」「エロスの涙」といった著作が刊行されたのと、澁澤龍彦出口裕弘といった翻訳者より若い世代の翻訳、解説が刊行され始めたというのも、影響しているとは思う。

おそらくその時期に、この本は買ったのだけれど、何とも難解であった。

読んだ当時の記憶も薄いのは、そのせいだと思う。

おそらく、バタイユの言っていることはシンプルで、悪とは生命を燃え上がらせるまでの錯乱でありそれが共同体たらしめる基礎に組み込まれている、ということを、ああでもないこうでもないと様々な作家をネタに述べている本だと思った。

それをストレートに言ってしまうとあっという間に終わってしまうので、手を変え品を変え語っているのだけれど、翻訳もそれに釣られているような気がして、妙に回りくどいような気がした。

原文のフランス語を読める訳でもないので、それは想像なのだけれど。