久しぶりに田村隆一を読んでみる。
詩と随筆のアンソロジーである。
誰もが田村隆一のように詩を書くことは出来ないが、酒を呑んだり銭湯に浸かったりすることはできそうだ。
随筆ばかり読んでいると、論理的思考ができなくなるような気がして、とはいえ急に堅い人文書に手を伸ばすほどでもなく、ちょっと堅めの随筆を選ぶ。
内田樹はレヴィナスの翻訳者として知っていたはずなのに、随筆で見かける名前と一致していなかった。
ともあれ、「街場の」シリーズにちょっと手を伸ばしてみる。
おそらく、大上段に構えた人文系の論説ではなく、例えばこの本のような、悩み相談といった形式で、テーマに触れたりするのがこのシリーズなのだろうか。
語られていることは、ややレトリックに流れているような気がしなくもないが、まぁ、面白く読めた。
通常のモノの見方とは異なる捉え方、一見自明のようなことでも批判的に捉える、という考え方のトレーニングが出来れば良いのだろう。
だから、現代思想の解説として読んだらがっかりするかもしれないが、解説を読んで解ったような気になってしまうよりはマシなんじゃないだろうか。
ついでに借りてみた1冊。
飛び地、未確定の国境、不自然な形の回廊、そういった地図上の国境線から、現代史の国境紛争問題に遡っていく。
この本もまた軽く読めてしまうが、あんがい重いテーマである。
とあるブログで褒めているのを見て、読んでみようかと思った。
が、図書館で予約したところ、返却待ちになっていた。
そして夏休みの前日に、貸出可能の通知が来て、借りに行けず、結局、1週間遅れで受取って読み始めた。
食事に関する軽いエッセイである。
まぁ、面白いのだが、あっという間に読み終わった。
幸田文の短編小説集である。
随筆での語りが小説世界では制約になって、どの登場人物も作者の分身となってしまうのではないか、という漠とした不安のようなものがあったのだが、それは杞憂だった。
表題作の「台所のおと」に描かれる料理人を始め、様々な人々が描かれるが、確かに作者の語りの延長線には居るのだけれど、きちんとキャラクターが立っている。
しかしそれもこれも、幸田文は幸田露伴の娘である、というレッテルで作品を眺めている、浅学な読者の一方的な思い込みに過ぎない。
その思い込みを剥がしてみたところで、これらの小説の世界観は、若い頃の自分にはきっと理解できなかったと思う。
保坂和志の「カンバセーション・ピース」には反応できても、この作品集までの距離には力量が届かない。
日常の小説化というか、ホームドラマ的な物語というか、うまく当てはまる言い方が見当たらないが、単純ではない機微な物語のようなものだと思った。
そう思うと、歳を取ったことで、手に取れる作品が増えたのかもしれない。
これらの小説を映像として観たい気もする。
だが、下手に演じると白々しくなりそうな気もするし、俳優たちの演技力も相当必要かもしれない。
子供の頃、NHKのドラマで観た記憶がある。
オープニングはトルコのCeddin Dedenで、これがとても印象的だった。
その後民族音楽を聴くきっかけだったと言っても、過言ではない。
名取裕子が出演してたように記憶していたが、これは勘違いだったようだ。
ドラマの内容はほとんど覚えていない。
wikiで調べてもピンとこないぐらい忘れている。
放蕩老人の話だったような印象だったのだが、老夫婦と娘4人によるホームドラマだった。
何かちょっといま読みたいものだったのとは違っていたので、早々に図書館へ返却した。
いまさらながら、幸田文の読者とは誰なんだろう、と思った。
懐古的な随筆はいつの日か考古趣味の対象になり、文学としては読まれなくなるのではないかという気がする。
幸田文が書いている対象について興味がある読者というのは誰なのだろう。
そして、幸田文の語り口、物の見方に共感する読者というのは誰なのだろう。
明治生まれの筆者が昭和の時代に書いた文章を、令和の現在に読むということはどういうことなのだろう。
幸田文を読み耽るうちにそんなことを考えた。
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