雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

私たちはどこにいるのか?/ジョルジョ・アガンベン

これは予言なのだけれど、「コロナの頃は良かった」と言い出すやつがきっと現れる。

「昭和は良かった」と言ってるのと同じ口調で、COVID-19のパンデミックについて、良い思い出かのように回想する。

それが何だったのかを考えること無く、ただの出来事として、そして生き延びた幸運だけを噛み締めて、あの頃は良かった、またはあの時は大変だった、とぬけぬけと言うだろう。

過去から繰り返される疫病の流行の一つとして語るのもまた、分かったようなふりで何も考えていないだろう。

ジョルジョ・アガンベンはイタリアの哲学者で、この本は2020年に発表された論説を収めている。

この本でアガンベンが繰り返し主張するのは、パンデミックで露わになったのは、民主主義国家が市民の自由を意のままに制限することができたということだという。

それは人間というものを、生物的な存在として縮小し、それを守るという名目で政府は自由に制限をかけることができる、という前例を作ってしまったということを意味しているという。

移動の自由、集会の自由が制限され、感染者の葬儀を行えないという死者への尊厳が奪われたことが、何を意味しているのか、法学的、政治学的に考察するならそれは正鵠を得ていると思う。

イタリア国内の事情を前提に書かれているので、日本と異なる部分もあるのだが、日本で言うと繰り返された非常事態宣言、飲食店への営業制限、ソーシャルディスタンス、そういった規制が政府から繰り出されたのもあるが、ヒステリックなマスコミの報道、自発的に飲食店への妨害、マスクをしていない人への嫌がらせ、などが発生してたことは、先の戦時下でも同じような事が起きていたんだろうなと思わざるを得ない。

やがて忘れ去られ、規制をかけられた可哀想な市民がとか言い出して、規制下でも楽しいこともあった、あの頃は良かった的な事を言うだろうと思うのだ。

 

珈琲が呼ぶ/片岡義男

いつもの図書館をぶらぶらして片岡義男の本を探していたのだけれど、80'sの頃の小説は見当たらず、エッセイのようなものを見つけた。

珈琲の出てくる映画、喫茶店にまつわる本、といった感じである。

分かるものもあれば、分からないものもある。

珈琲が飲みたくなるというより、登場する喫茶店に行ってみたくなる。

さらっと読むには、かなりボリュームがあった。

 

 

 

三万年の死の教え/中沢新一

だいぶ前に買った本なのだけれど、ふと思い出して読み返す。

あれからだいぶ落ち着いて、気持ちの方の整理も着いてきたと思っている。

思っているだけで、こういう本に手が伸びてしまうのは、まだ整理が着いていない証拠かもしれない。

この本は「チベット死者の書」として知られる「バルド・トゥドゥル」についての解説本と言える。

チベット仏教の中でも、早くから西欧社会に紹介されて、60'sなどにも流行したらしく、当時生まれてなかった自分でもその名を知っている。

第1部は、NHKスペシャルのための台本がベースになっており、当時(たぶん1993年辺り)TVで観た記憶がある。

人の死の瞬間から、輪廻の中へ戻っていくまでを描き、「バルド・トゥドゥル」は解脱するための手引きとして書かれている経典である。

第2部では、この「バルド・トゥドゥル」に関する解説、第3部は背景となるチベット仏教に関する解説となっている。

なぜ、いまこの本を読み返したのか、と言うと、第1部の輪廻へに戻る過程とその日数が、仏教の法要日程と何か関係があったような気がしたので、確かめたかったからである。

それに対する明確な答えは見つけられなかった。

そもそも日本における死に関する儀式は、仏教だけでなく、神道的なものや、各地方での習俗が混交したものだから、チベット仏教にその答えがあるかも、というのは、ちょっと筋違いだったかもしれないと思った。

民主主義は、いま?

アガンベンが気になったので、図書館で借りてみた。

民主主義について、以下の8人の論考が収められている。

ジョルジョ・アガンベン

アラン・バディウ

ダニエル・ベンサイード

ウェンディ・ブラウン

ジャン=リュック・ナンシー

ジャック・ランシエール

クリスティン・ロス

スラヴォイ・ジジェック

主にフランスを中心とした範囲で、それぞれの視点や論点は異なる。

それぞれをひとつひとつ丁寧に追っていくのはくたびれるし、そうすることに意味があるのか良く分からない。

どうやら共通する認識とし、民主主義という主義そのものは存在しないか、言葉の意味が希薄な概念だという点があって、そこから政治的な問題と社会的な問題に分岐したり、制度の話だったりコンセンサスの話になっているように思った。

また、民主主義の起源をプラトンや、フランス革命に求めるのは、共通の考えのようだった。

たぶんフランス現代思想の文脈での考察であるため、リファレンス先が似か寄るのかもしれない。

では日本で考えるとしたら?

と思ったけれど、まさにイデオロギー的な話なので、これ以上はここでは書かない。

言語が消滅する前に/國分功一郎、千葉雅也

例えば本を読むときに、著者が自分より年上かどうかは気にしない。

面白そうだから読む、面白かったあの本の中で紹介、引用されていたから読む、そんな風に直観と読んだ本を手掛かりに、本の森の中へ分け入っている。

しかしこの読み方では、読んだ本から遡ることはあっても、そこから派生したものには辿り着けない。

過去を批評することはできても、未来を予言することはできない。

そうすると自然と、自分より先達の作家、評論家、学者の本ばかり読んでしまう。

やはり古典が大事と嘯いてみたところで、限られた考えに凝り固まっていく未来が見えてきたので、ちょっと若手の哲学者の本でも借りてみようと思った。

ちょっと前に、ツイッターで炎上してたらしいと聞いてたので、どんなことを言う人なのかと興味を引いた。(炎上した言説そのものには興味なし)

どうやら、2017年以降、著者2人による対談で、お互いの著作を褒め合う内容で始まる。

正直なところしばらく読むのが滞ったが、約半分の辺りから興味深い内容になった。

キャッチーなキーワードとして「権威主義なき権威」というのが出てくる。

対談の中で端的に語られる内容から推察するに、ある種の支配力を及ぼす存在なのだけれど、流動的であり、合議的であり、被支配層から求められる限りにおいて権威であるような存在のようだ。

それは旧来の師弟関係を言い換えているだけのようでもあり、結局、権威主義の温存を図るための偽装のようでもあり、あまりなるほどと腑に落ちる概念とは思えない。

しかし、その概念に関連する現状認識として、コミュニケーションの意味の変容、心の闇の蒸発、といった捉え方はなるほどと納得できるものだった。

確かに、コミュニケーションの重視を喧伝する自己啓発本などもよく見かけるが、その内容は旧来のネゴや根回しのテクニックのことを意味していたりするのは、いつの間にかコミュニケーションという言葉の意味をすり替えられている、という指摘はなるほどと思った。

閉じられた集団の中でうまくやるためのテクニックと、集団の外部との意思疎通の方法が、同じ言葉で表されるのは違和感があるだろう。

また、心の闇が蒸発した、という指摘もまた、なるほどと思った。

ビジネスの世界において、トヨタ由来の「なぜなぜ分析」といった手法があり、発生した事象に対する原因を追究していき、その根本原因に対する対処を立てるといったテクニックがあるが、ここでは全てが合理的であり不条理など存在しない世界観を前提に展開される。

それはあの悪名名高い自己総括と同型の小さな政治権力の行使なのだろうと思うのだけれど、未だにビジネスの世界に根強くはびこっているようだ。

いまや人の心の闇など存在しないことを前提に、ビジネスの世界ではマインドフルネスといった個人の領域を取り込んだ経営を実現しようとする、うすら寒い状況が観測できる。

だからといって、「権威主義なき権威」が有効な思考であるかは判断を留保したい。

総じて別の角度から世界を見るためのヒントとなるキーワードは幾つかあったので、面白い本ではあった。

しかし、脚注は一切ないので、たぶん現代思想に触れていない人にとっては、耳慣れない記号論の用語(シニフィアンエクリチュール、など)やドゥルーズフーコーアーレントなどの名前が唐突に出てくるので、ちょっととっつきにくい本かもしれない、と思った。

 

HOSONO百景/細野晴臣

もう何年も細野晴臣ブームが来ている。

毎週日曜深夜のラジオも聴くし、本や雑誌を読み返したりもする。

この本は雑誌「TRANSIT」の連載をまとめたものらしい。

連載と言っても、語ったものの文字起こしのようだ。

晩年の吉本隆明にもそういう本が何冊もある。

雑誌の性格に合わせてか、世界各地の訪れた街のこと、昔の音楽の思い出、今まで折りに触れ何処かで聞いたことある話なのだけれど、どうしてか読んでしまうのは、語り口にも一端があるに違いない。

気楽に読めた一冊。

 

インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。/菅村雅信

どこで見聞きしたのか覚えていないが、もしかすると店頭で見かけたのかもしれないが、とりあえず図書館で借りてみたのだけれど、2か月ぐらい待っただろうか。

借りて読んでるくせに言えた義理でも無いけれど、2時間ほどであっという間に読み終えた。

クリエイター向けにアウトプットの質を高めるにはどうしたらいいか、というハウツー本なのだけれど、ハウツー本である時点でターゲットはクリエイターではなく、「クリエイターになりたい何者か」に向けた本なのだと思った。

さらに言えば、若手サラリーマンに向けて、「これからの時代はDX、皆さんはクリエイターなのです」という強迫観念で追い立てるための方便のようなものなんじゃないか、とも思えた。

それは読み手の自分が既に若手じゃないし、ここで勧められてるようなクリエイターを目指しているわけでもないからそう思うだけで、20代の頃にこの本を読んでいたら有難く思ったかもしれない。

(ただし、実際に20代の頃には、ビジネス書は読んでいない)

著者の主張については、タイトルと本書の冒頭数ページで言い尽くされていて、改めて繰り返しても何の意味も無いので、ここでは取り上げない。

あとは、繰り返し提示されるおすすめリストと隙間を埋めるエピソードの数々で、気軽に読める。

もしこれらの、おすすめリストが役に立つのだとしたら、そのフィールドに目を向けたが無い人たちであって、目を向けたことが無いということはそのフィールドのクリエイターを目指したことが無い人なのだろうし、そうすると、全く異なる場所にいる誰かを誘導してきて放牧するときの手引きとしてのリストなのだろうと想像できるわけで、つまりはカッコつきの「クリエイターになりたい何者か」に向けた本なのだろうな、と思ったわけなのだ。

人生後半の人が読む本では無かったな、という自戒を込めて。