雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

うわさのベーコン/猫田道子

たぶん2000年頃に話題になったのではなかったろうか。

サブカル界隈で話題になってたように記憶しているが、相変わらず絶版のままらしい。

ふと思い出して読み直してみる。

改めて読み直してみて、この作品に漂う違和感のようなものは、詰まるところ稚拙さなのではないかと思った。

この作品に作為のようなものを感じてしまうとしたら、読み手の深読みだろうし、作者の作為があるとしたら、無作為を装って誤字、脱字、かな書き、ルビ、といった仕掛けを残していることなのではないだろうか。

整った文章が読みやすく、美しく、優れていると考えてしまうのは、「真・善・美」の系列の価値観に基づいているとしたら、整っていない文章を敢えて褒めそやすのも、単なる裏返しであり「真・善・美」の価値観から抜け出してはいない。

最近あちこちでよく見かける逆張りなだけであって、もう一つの価値観とは言えないだろう。

整える前の文章に何かしらの価値を見出しているとする作者と編集者の戦略に対して、もし読み手がその戦略に乗らないとしたら、読み手はこの作品の価値を見出すことができるのだろうか。

再読して思ったのは、無作為を装っているあざとい作為なのではないかと。

真偽のほどは分からない。

 

うたかたの日々/ボリス・ヴィアン

名前は知っていても、手に取らなかった本のうちの一冊である。

なぜ手に取らなかったのかは分からない。

物語としては悲劇的な恋愛譚と言っていいのだろうか。

コランとクロエ、彼らの周りに、シック、ニコラ、アリーズ、イジスの6人が物語の中心にいる。

一目惚れから結婚、そして病に倒れ、やがて死に至る、という物語は単純ながら、様々な造語やイメージが散りばめられ、まるで奇譚のようではある。

だが、それらの突拍子もないイメージは、謂わば比喩の直截な表現であり、むしろ不可解な病で死にゆく連れと財産を失っていく物語そのものの若者らしい想像力を、魅力として感じてしまう。

ではもし10代の頃の自分がこの本を手に取っていたら、今と同じように感じるだろうか、と考えたけれど、たぶんそうは感じないだろう。

年を取ったからこそ分かるものもある、そんな類の物語のような気がした。

 

最後まで、あるがまま行く/日野原重明

日野原重明は聖路加病院の院長などを歴任し、地下鉄サリン事件では聖路加病院を開放して救護にあたったり、105歳で天命を全うするまで医師として活躍されてて、以前通っていた人間ドックで名前を知っていた。

名前は知っていてもその著作を手にすることは無かったので、101歳からの随筆をまとめた本をちょっと借りてみた。

自分が100歳まで生きられるとは思っていないので、101歳で見える世界はどんなものかと思ったが、この本を読んでみると、そう大きく変わらないのかもしれない、と思った。

日々の様々な出来事、思い出、体の不調や怪我、そういったことが、淡々と綴られていく。

最後まで生きたいと願うこと、それが長生きの秘訣なのだろうか、などと思った。

 

ラストワルツ/村上龍

村上龍の「すべての男は消耗品である」というエッセイを読んだのは、たしか大学生の頃で、後から振り返ってみればバブル末期の頃だった。

文化系サークルに属していると本を読む人間は多くて、酔っ払ったときのネタ話の一つに村上春樹村上龍のどっちが好みかという話があった。

勝手な偏見で言うと、ちょっとお洒落な意識高い系の友達たちは村上春樹、ちょっと男臭くてヒッピーカルチャーの残滓に共感するような友達たちは村上龍、といった感じがした。

もちろんみんなどちらも読んでいるので、あそこが良いとかあそこが嫌だとか、酔っ払って煙草をふかしながら部室で話していた。

文学部の男くさい感じのリュウ派の友達が「すべての男は消耗品である」を薦めてくれた。

(彼の彼女は、背筋の伸びた着物が似合いそうな女性だったっけ)

思い出話はこれくらいにして、この本はその「すべての男は消耗品である」のエッセイの2013~2015年頃のものである。

学生の頃読んだ連載開始の頃の内容はすっかり忘れているし、村上龍の熱心な読者でも無いけれど、あぁ、そういえばこんな感じだったっけとどこか懐かしい感じがした。

およそ10年前で62歳と言っているので、今は70歳を越えているのだろうけれど、今の自分より年上の男が何を考えているのか、という事に関して言えば、わりと等身大の内容だと思った。

老いのこと、若者のこと、興味が薄れていくこと、先が見えないこと、様々な切り口で何かを語ろうとしても困難な状況に入り込んでしまう困難さ、そういったことが村上龍という60代の男の口から語られていることには、(10年前ではあるが)ある種のリアルがある。

もちろん、なるほどと思うこともあれば、それは違うんじゃないかと思うこともあるが、どちらにしてもリアルさとは関係が無い。

ではリアルな同年代の友達が、村上龍のような話をするかと言えば、そうでは無い。

リアルな人間がリアルを持ち合わせているとは限らないし、この難しさについては今は語ることができない。

最後に、なぜこの本を手に取ったかと言えば、ザ・バンドの「The Last Waltz」と関係があるのかと思ったら、全然関係が無かった。

本心/平野啓一郎

今までに平野啓一郎を読んだことがあっただろうか。

2005年からの読書記録としてのこのブログには記載は無いが、読んでも書いていないこともあるし、2005年以前に読んでいた可能性が無いことも無い。

この本を読もうと思ったきっかけも良く分からないが、未読本のリストに載っていたので、誰かに勧められたのかもしれない。

この物語は母を亡くした子供の成長の物語であり、AIやSNS、そして近未来の日本社会をめぐる「本当らしさ」の物語でもある。

自由死を望む母を事故死で亡くした主人公が大金をはたいて母のVF(ヴァーチャルフィギュア)を依頼するところから物語は始まる。

そして主人公の母をめぐるモノローグで物語は展開してゆく。

自らの死を決定できる「自由死」という概念だったり、格差の広がった日本社会における職業差別や外国人差別だったりという要素に、作者のイデオロギー面が見え隠れもする。

AIとVRによる故人の再構築というアイデアは、かなり現実的でもあり、故人の本当らしさが依頼した側(この物語では主人公)に問われるというのはその通りだろう。

自分が自分であるように、対峙している相手が相手であることは、結局、自分の認識の問題なのだということは、最後には他者性としてスリップしてしまっているように思った。

世界にただ一人の存在としての自分と同じように、他者もまた世界のただ一人の存在であることを認めるのであれば、VFの母は存在しないことになるのだが、主人公に収入をもたらす存在となってゆく。

主人公が手にした他者、誰かの役に立ちたいと思う誰かとは、関係の中にしか存在しないし、VFの母必要としない自分を見出そうとする主人公にとってそれは本当らしさが失われてゆく。

物語の背景にある格差社会や差別問題は主人公が関係する限りにおいて、本当らしい問題として立ち現れるので、ぼんやりとした物語の背景なのだけれど、逆を返すとそれは作者が紛れ込ませた作者の思考として見えてしまう。

主人公の父探しも主人公の求めている本当らしさの水準に至ることは無い。

既に失われている関係は第三者を介在することでしか存在せず、第三者から語られる父の存在の本当らしさは、結局、主人公の求めている水準には到達しなかったように思える。

母の本心の本当らしさは、母の友人や、かつての愛人関係にあった人から語られる言葉を主人公が判断することでしかないのだけれど、他者性の問題にスリップしてしまっているように思う。

しかし、スリップしなかったら不可能の物語として救いようが無いのだから、それはその方が良いようにも思った。

 

 

 

センセイの鞄/川上弘美

久しぶりに川上弘美を読んでみようと思ったのは、酔っぱらっていたからかもしれない。

酔った帰りにブッ〇オフで何となく買った。

何冊か読んだのが数年前だった気がしている。

川上弘美の小説は少女漫画的な印象がある。

少女漫画とは何か、という話はたぶん複雑で入り組んだものになるような気がするけれど、端的に言えば、登場人物たちは性的な匂いはしないし、日常の機微な出来事が大層な事のようにクローズアップされる世界だと思う。

高校の恩師であるセンセイと、かつての教え子であった主人公の、淡い恋情の物語である。

例によってあらすじをまとめたりしないが、30才ほど年の離れた2人という設定自体が少女漫画的だとも言えるだろう。

もちろんそれが何ら悪い意味で言っているのでもないし、そう感じるのは読者である自分のジェンダー的な限界でもあるかもしれない。

作者がこの小説を少女漫画のように、想定したかどうかは知らない。

だが、この小説に込められた感慨のようなものは、少女漫画的な発想に基づいていると思う。

きみの言い訳は最高の芸術/最果タヒ

実は最果タヒの詩を読んだことが無い。

名前ぐらいは知っていて、詩人だという事と、ブログから注目されるようになった、という程度の情報しか知らない。

とはいえ、どんな文章を書くのか気になってはいて、ちょうど古本屋で見つけたので購入した。

恐らく親子ほど年齢が離れていて、全く世界を見る目が異なっていて、同じ日本語のはずなのに分からないことも多いと思った。

本当に分からないのかというと全部が分からないという事でもなく、考えていることは分かるような気もするけれど、全く異なることを意識してしまう。

それに、この本が分かると言ってしまうことは、まるで若者に理解があるような嘘くさい年寄りのような身振りではないだろうか。

結局のところ、そんな御託を並べてみるという事は、この本の内容が分かっていないことでしかないのだけれど、それでもいくつか分かるような気がする内容もある。

その、「分かる」と「分からない」の間の「分かるような気がする」に近いところにあるような文章のような気がするのだけれど、本当にそうなのか自信が無い。

そういう類の本だと思った。

たぶんこういう感じは増えていくのかもしれない。