雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ねむの木の子どもたち/宮城まり子

もらったのだけど読めずにいた本をようやく読んだ。

女優としての宮城まり子は、「黒い十人の女」ぐらいしか覚えていない。

昔、朝のラジオで番組全体ではないけれど、コーナーがあって話をしていた気がする。

この本は、宮城まり子が理事長の体の不自由な子どもたちの施設「ねむの木学園」のエッセイである。

読み手もちょっと身構えてしまう扱いの難しいテーマだと思うが、そんなことはなくさらりと読むことができた。

といっても、内容が軽いわけではなくて、語り口の絶妙さがあるような気がした。

宮城まり子の視点で描かれている子どもたちの姿は、愛情深く優しいのだけれど、このエッセイの背後に透けて見える、障害のある子どもたちに対する家族や社会との軋轢のようなものを感じ取ってしまう。

それをここでは多くを語るつもりもないし、そもそも語らずにやり過ごしたい話なのだけれど、それでも何か言ってしまいたくなるのは、この本の良さなのだと思う。

 

夜のミッキーマウス/谷川俊太郎

何となく、詩が読みたくなって読み返した。

薄い詩集なので、すぐ終わってしまう。

詩集というものは、目次からあとがきに向かうのが正しい読み方なのか。

詩集の目次が、私の役に立ったことはない。

あとがき、解説もろくすっぽ読んでいない。

この詩の後にこれが並ぶのは意図しているのか、していないのか、と考えてしまうことが時々ある。

谷川俊太郎の詩というものは、作者が生み出したものでありながら、それだけで存在するような言葉、という考えが時々出てくる。

この詩集のあとがきでも繰り返している。

それならば、詩集というものは目次からあとがきに向かわなくたっていいし、全部読む必要だってない、本という体裁でなくたっていい、言葉がそこにあるということと本であることは矛盾している。

そんな事を考えさせてくれるのは、良い詩だと思っているからなのだろう。

 

墨汁一滴/正岡子規

本棚の読んでなかった本を読む。

正岡子規は買ったものの、数ページ読んで投げ出した。

何となく辛気臭いと思った覚えがある。

若くして逝去し、病床で綴った文章に、身も蓋もないが、確か20代か30代の頃の記憶である。

それでも処分せずに持ち続けていたので、改めて読んでみる。

新聞「日本」に連載していたそうだが、文章の長短の差が大きい。

また、題材もとりとめもなく、和歌、俳句の時評は多いが、漢字の誤りを正す回が続いたり、体の不調を訴えたり、様々な文章が並んでいる。

和歌、俳句の時評のようなものを読んでも、どうしても上滑りしてしまうし、なんだか鼻につく。

どうしてなのか考えてみると、これは正岡子規が33歳の時の時の文章で、病に伏してはいるものの、世間に対して若さゆえの反抗というか、今の言葉で言えばイキり散らかしている文章なのだと思った。

明治の文豪であり、自分より上の世代だから、老成した大人だと、どこかで思い込んで読み違えていたのだろう。

そう思うと少し心のハードルが下がって、面白いエピソードなども楽しめる。

懐石料理の真髄が味噌汁であるとか、東京者と田舎者の比較だとか、地獄へ行った創作話だとか、牛の品種改良から人種改良について考察していたり、また、夏目漱石と牛込の田んぼの思い出だったり、中村不折との思い出だったりなかなか面白かった。

 

Chatter/イーサン・クロス

前に読んだのは、2023年だから3年前で、その頃は精神的にも参っていたので、斜め読みしかできていなかったかもしれない。

それを差し引いても、やっぱりもう一度読みたいと思って、買うことにした。

改めて読んでみたが、自分の中の内なる声Chatterとどう付き合っていくのか、という本であり、また、環境を整えるとか、SNSを遠ざけるとか、そんな提言もあったのは覚えていなかった。

最終章にChatterとの付き合う26の方法が載っているので、じゃあ、ここだけ読めば良いかと、タイパ/コスパの世界ではなりそうだけれど、それらの具体例がそれまでの章で説明されているので、それを読まずに結論だけを見たとしても、たぶんピンと来ないようにも思う。

たぶん前に読んだときは、内容を受け止めきれなかったようにも思うのだ。

 

とりかえばや物語4 冬の巻

さて最終巻である。

姉は帝にお目をかけられて女御に、弟は最終的には左大臣にまで、宰相中将だった男は大納言にまでなる。

あちこちの女性に手を付けまくっても、大納言になるのは、貴族社会が一夫多妻制を前提としているからなのだろうか。

貴族社会の分からなさもそうだが、登場人物たちの心の動きもよく分からない。

何かと直ぐにめそめそ泣くし、ものすごく人の目を気にする。

また、呪術が根底にあって、しばしば祈祷が行われ、上手く行ったのは祈祷のおかげ、上手くいかなかったのは祈祷が足りない、という考え方も、平安時代というのは、全く今と異なった世界だというのを実感する。

結局、反対のジェンダーをまとっていた姉弟は、元のジェンダーに戻って大団円という物語であった。

 

とりかえばや物語3 秋の巻

そして3巻目、秋の巻であるが、時間的には次の年の春あたりから始まる。

中納言は右大将になり、宰相中将が権中納言になって、名前を覚えるのが苦手なので、ちょっとややこしい。

あらすじを書くのは野暮ったいけれど、右大将と尚侍はそれぞれ生来の性別に合った立場に戻り、新たな人生を始めることになる。

そこに至るまでの、右大将と四の君の出産(いずれも父親は権中納言)や尚侍の転機など、90'sジェットコースタードラマのようなエピソードがてんこ盛りなのだが、いったい何処に共感する所があるのか、ちょっと解らない。

だが解らないなりにも、荒唐無稽な展開は面白い、と言って良いかもしれない。

 

とりかえばや物語2 夏の巻

さても2巻目、夏の巻である。

中納言の妻の子供が生まれ、夫婦間の間は冷め切り、中納言が女であることが宰相中将にばれて手籠めにされて、挙句に妊娠し、悩んでやつれてしまう。

いったいこれは何の話なのか?

90'sのジェットコースタードラマみたいでもある。

ここまでの主人公である中納言の悩みは理解しがたいが、乗りかかった舟のなので後半2冊も読み通す。