これももらった本。
読んだことなかったような気がしていたが、1回読んだことがあった。
案外覚えていないものだ。
向田邦子は、たまに会う親戚のおばさんような感じがする、と前に書いたことがあったと思うが、読み出すとその感じが戻ってくる。
何ということのない日常に、さざ波のような出来事が起きて、やがて日常に戻っていく。
日常の中に埋め込まれた小さな物語である。
ふと思い出したのだけれど、小説を読んだのが久しぶりな気がした。
その違和感に気付くと、それがずっと気になってしまった。
これももらった本。
読んだことなかったような気がしていたが、1回読んだことがあった。
案外覚えていないものだ。
向田邦子は、たまに会う親戚のおばさんような感じがする、と前に書いたことがあったと思うが、読み出すとその感じが戻ってくる。
何ということのない日常に、さざ波のような出来事が起きて、やがて日常に戻っていく。
日常の中に埋め込まれた小さな物語である。
ふと思い出したのだけれど、小説を読んだのが久しぶりな気がした。
その違和感に気付くと、それがずっと気になってしまった。
下巻は観無量寿経と阿弥陀経である。
観無量寿経は、アージャンタシャトルが父ビンビサーラ王を軟禁するも、デーヴァダッタ妃の手助けにより命を永らえ、デーヴァダッタ妃もまた軟禁され、仏陀が教えを説くストーリーがある。
アージャンタシャトルのこの行動についての言及はなく、如何にして仏国土(浄土)に生まれ変わるための善い行いはなにか、ということを説いていく。
その中でも瞑想の方法について言及が長い。
無量寿経がしてはならない悪い行いを戒めているのと、ベクトルの向きが逆になっている。
阿弥陀経は長老シャーリプトラに対して、仏国土を信じることを説く。
根拠も無く、ただ信じることで仏国土へ至る。
これで浄土三部経を読み通したのだけれど、お寺で唱えているのは親鸞の言葉だったのを思い出した。
これらの三部経から親鸞が掴みだしたのは、ひたすらに念仏を唱えることで、浄土へ至る、他力本願の教えなのだと思い出した。
まさに阿弥陀経の「信じる」ことを「南無阿弥陀仏」と繰り返し唱和するのだ。
なるほど理屈はなんとなく見えてきたが、やはり信心が足りない。
さて、10年後、20年後、この文章を見てどう思うのか、その頃には信心が芽生えていないとも限らないし、死の床ですがる思いで念仏を唱えていないとも言い切れないだろう。
法事でお寺に行くと、浄土真宗は一緒に称名を唱える、ということを最近知った。
信心はないのだけれど、わけも判らず唱えているのも気持ち悪いので、原典にあたってみる。
上巻は無量寿経なのだけれど、やたらと数と名前が出てきて、惑わされた。
そこはまた今度読んでみることにして読み飛ばした。
アーナンダに授けられるのは、この汚辱と不正に満ちた世界で、してはならない悪を注意である。
これは哲学ではなく、宗教であり、教えを批判的に捉えるのではなく、全肯定すべき考えなのだろう。
現実世界をどう捉えるかという認識論として、今の生の正しくないものを指摘して、正しい行いに導き、数字で示す遥かなる時間、空間を志向するように思えた。
数字に対するフェティシズムがあるように読んでしまうのは、信心がないからだろう。
平家物語の中でも、平将門の乱の話は何度か登場していた。
どのような社会集団に、平家物語が広がっていたのか、不勉強で分かっていないけれど、発生から数百年経っても、直接関わりのある公家社会、武家社会に相応のインパクトがあった出来事に違いない。
千年以上経ってもなお祟る平将門という人物、そして東国を制圧して新皇を僭称した反乱とは何だったのかを、文学、地学、武具史、環境史、民俗学など様々な角度から語っている本である。
歴史上の平将門という人物、そして平貞盛、藤原秀郷に討たれるまでの争乱、関東各地に広がっている平将門伝説は、幾重にも重なった話でありそれを丹念に読み解いていく。
平将門の乱自体は、平氏の親族内の争乱が発端であり、むしろ平将門は千葉、茨城近辺の豪族間の争議の調停者でもあったりしたようだが、朝廷の末端である国司との対立、争議により朝敵と見做されたようだ。
京都、奈良から日本各地へ国司を送り支配している大和朝廷の力は、関東においてはまだまだ盤石とは言えず、地元の豪族達との関係も微妙なバランスであったのだろう。
その背景には、霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼の範囲に広がっていた「香取内海」とでも言うべき内海の世界があり、その香取内海を望む立地の香取神宮、鹿島神宮は海上交通に重要な役割があったようだ。
また、実際の争乱の後、将門は鉄身であったと「太平記」で書かれたり、有名な首塚伝説、七人の影武者、など都市伝説化していくのもさらっと触れているが、もっと掘ると面白そうだ。
ちなみに千代田区大手町の首塚は、江戸時代には人も訪れないほど荒廃していたが、明治政府が池を埋めたり、関東大震災やGHQが更地にしようとするたびに怪異が発生したことで、クローズアップされた比較的新しい祟りらしい。
千年を超えてなお祟る超自然的な存在を、神田明神を始め平将門を慕う心情は、関東の町民、農民が共通して持っている意識下の古層なのだろう。
将門記を取っ掛かりに、10世紀の関東平野の姿を想像するなかなか面白い本であった。
「先祖の話」を探した時に、もう一冊、柳田国男の気になった本を、勢いで買ってしまった。
頭をよぎったのは、確かレヴィ・ストロースの南太平洋の研究だったと思うけど、交差イトコ婚、平行イトコ婚といった用語、もう一つは沖縄辺りの習俗で妹が重要な役割があったと思うのだけど、はっきり覚えていない。
しばらく平家物語にやられて、しばらく手を付けられずにいたけれど、読み進めるとなかなかどうして面白い本だと思った。
大正末期、昭和初期の頃に雑誌に発表されたものをまとめている。
論文というより、随筆に近い。
「妹の力」は思ったような内容ではなく、日本の歴史における女性の役割を示唆するようなところで話が終わっている。
「玉依姫考」「日を招く話」「人柱と松浦佐用媛」「老女化石譚」といった各章で日本的なシャーマニズムの例を並べてゆくのが面白い。
特に「うつぼ舟の話」は面白い。
柳田国男か取り上げると、なぜこんなにつまんなくできるのか、というぐらい粗野で下らないホラ話のようにまとめているが、異人漂着譚、少女受胎譚といった要素が絡んだ伝承のようだ。
同じ話を、澁澤龍彦ならどう書いたか、小松和彦ならどう取り上げたろうか、エリアーデならどう考察したろうか、そんな想像をした。
3カ月前に予約した本が、ようやく借りることができた。
読む前から何となく内容は分かるのだけれど、分かった気になっているだけでは、何の意味もないので読んでみることにした。
こういった本の要約には何の意味もないけれど、繰り返し述べられているのは、やってみたい心の動きとやめておこうという脳の働きの解説が、さまざまな実験データの要約で示される。
理性的であろうとするほどに、一歩が踏み出せなくなる仕組みが説明されている。
だがそれは、無鉄砲になれとか、考えずに行動することを推奨しているのではない。
また、さまざまな実験データは、最新の脳科学研究のさわりの紹介にもなっている点が面白い。
これももらった本である。
世間では歳を重ねると寺社仏閣巡りをしたり、御朱印集めをしたりするようなのだけれど、自分の場合、元から信心もないばかりか、そういった信仰に向かう気持ちが無いことの実感が増すばかりで、この本はもらっても読まないだろう、と思っていた。
白洲正子も何冊か読んたような気がするけど、あまりピンときていなかった。
しかし、自分の予想は外れ、一気に読み耽ってしまった。
白洲正子自身が信心が薄いようで、信仰心からの巡礼ではない。
西国三十三所を巡って行くのだが、信仰に対する憧れとともに、その視線は、江戸時代の物見遊山、現代の観光に近いものを感じる。
寺社の来歴、古典からの引用、そして著者自身が自然や景色に詠嘆する。
巡礼への誘い、ではなく、ガイドブックのような本なのだった。
この中で私自身が行ったことがあるのは、最初に出てくる那智勝浦の青岸渡寺なのだけれど、あぁその感じ分かるな、という文章だったのも好評価に繋がっていると思う。