雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

美しい星/三島由紀夫

自らを宇宙人であると自称する家族の物語である。

父は火星人、母は木星人、息子は水星人、娘は金星人を自認している。

当然ながら、そういう人々と周囲との軋轢やら摩擦がある。

それは宇宙人だから故ではなく、周りと異なる概念や思想を持ってしまった故の必要なコストなのだ。

各国の首脳クラスに世界平和を説くとか、周りを「目覚めていない」と見做すとか、そういった考えは宇宙人だから故ではない。

これは寓話であり、なおかつスラップスティックでもある。

つまり、ある考えに憑りつかれた人間が、どのように世界を見ているのかという思考実験でもあり、どのように見られているのかというドタバタ劇でもある。

だがこの小説はそう一筋縄では行かせない。

ところどころに本当にUFOが登場する。

それは象徴的な存在としてのUFOではなく、あたかも実在するかのように描かれる。

世界平和や人間存在についての思弁が並べられ、そういった観念そのものをパロディとして描いている中に、UFOが実在として描かれることは、小説として描かれる世界そのものもまたパロディなのだということだと思った 。

宇宙人を自認する家族のホームドラマとして描くことと、平和や自由や政治や人類といった観念のパロディを並べることが、小説という一つの枠組みの中に納まることに対して、UFOの登場によって無効化される。

主人公家族それぞれの物語、白鳥座61番星の惑星出身の宇宙人3人のホームドラマ辺りまではスラップスティックとして読めるのだが、主人公の金沢訪問、そして白鳥座61星人との思想対立の辺りから、物語はおかしくなる。

パロディは対象が確固たるもので、それを笑うために行われるものだろう。

だが、主人公の金沢訪問で笑われる対象は、宇宙人を自称する主人公であり、思想対立で茶化されているのは誰なのか良く分からない。

長大な思想対立問答は、狂騒的な白鳥座61星人の姿と、殉教者のように倒れる主人公の姿で終結する。

入院した主人公に啓示がありUFOが現れ物語は終わる。

それまでのスラップスティックな物語は、主人公の啓示と救済の物語に変容してしまう。

しかし、UFOが現れることで救済されたものは何だったのか?

結局のところ、UFOの出現により宇宙人を自称することが笑えないものとして描かれることで、スラップスティックとして読んできた読者は置いてけぼりを食らう。

UFOが出現しないエピソードから物語は始まり、登場するエピソードで物語は終わってしまう。

もし、最後もUFOは登場しないエピソードだったとしたら、宇宙人を自称する主人公が人間として死んでゆく、スラップスティックとして物語は終わっただろう。

しかしUFOは登場する。

この物語におけるUFOとは中心ではなく、外部だったのではないだろうか。

金沢訪問時に娘が見たUFOも、白鳥座61星人たちが見たUFOも、そして主人公たちの前に最後に現われるUFOも、物語の中心なのではなく、物語に介入してくる外部であり、無意味な存在だろう。

そして物語から意味を奪い取るための装置として機能しているように見えた。

 

動物化する世界の中で/東浩紀、笠井潔

東浩紀笠井潔の往復書簡、という形式の対談とでもいうものだろうか。

1948年生まれの笠井潔と1971年生まれの東浩紀、どちらにも欠けているものがあって、どちらにも評価すべきところはある。

読んでいる自分はと言うと、年代的には東浩紀に近いけれど、思想のバックグラウンドとしては笠井潔の方が近いように感じる。

ポストモダンなるものが何だったのかを総括しようとしても、そこにあるのはポストモダンでまとめようとした60年代から徐々に朽ち果てていった左翼的なものであったり、動物化で言い表そうとしているのは、新しいものに対する思考の怠慢だったり、互いに言い足りないものが目立っているようだ。

2002年当時とはいえ、9.11について沈黙せざるを得ないのは、戦争そのものが変質し、反戦の意味が変わった、と言うならば、新しいテロリズムから擁護すべきものが何かを問い直すべきではないのかと思った。

そしてそれこそが、ベルリンの壁崩壊から連なる、90年代から伏線が張り巡らされた世界地図の塗り替えであり、解読の対象だったのではないだろうか。

テロと反テロの二項対立思考で動かされてしまう論理に乗っている限りは、9.11に対してどのような態度をとるのかは、白か黒でしか表明し得ないし、二項対立でしか解読できない世界はポストモダン的な視点からですら後退している。

ポストモダンの終焉の後、モダニズム以前に回帰するのか、ただ困惑して立ち尽くすのか、それがこの対話の中心にあると思うのだが、二人はそこに辿り着けないのか、辿り着こうとしないのか、議論は空回りし続ける。

いささか東浩紀の言説は性急すぎるし、笠井潔の言説は迂遠過ぎるし、それを埋める回路の無さが、まさにいまここなのだということだろう。

それから20年経った「いま」を語るには、性急すぎる言葉と迂遠すぎる言葉の間に、無限の劣悪なコピーで埋め尽くされているようになったと思った。

 

アブサンの文化史/バーナビー・コンラッド三世

ブルトンがジャリを評して

ジャリはアブサントにおいてシュルレアリストである

と書いていたので、実際、アブサン酒を呑んでみたいと思ったけれど、その前にアブサン酒とはどんなものなのか、ちょっとした本を読んでみることにした。

図書館の予約システムでアブサンと入れると、真っ先に水島新二の「あぶさん」が検索結果に上がってくるぐらいに、日本においてアブサン酒はそれほど有名でもないようだ。

この本は、アブサン酒そのものというよりは、19世紀末フランスの文壇、画壇とアブサン酒の関わりを多くの図版と共に紹介している。

ヴェルレーヌランボーボードレール、ワイルド、ジャリ、ドガロートレックゴッホピカソらの逸話を集めた軽い読み物という感じで、200頁超あるがあっさりと読めた。

イレーヌ/ルイ・アラゴン

初めて読んだのは高校生の頃だったと記憶している。

奢霸都館の洋書の雰囲気のする装丁の本だった。

何故この本に辿り着いたのかは覚えていない。

澁澤龍彦経由かもしれないが、まだこの頃はそこまで読み漁ってはいなかったはずである。

それはともかく。

アラゴンシュルレアリスム運動の初期の頃には参加していたが、共産党へ入党、社会主義リアリズムへ転向し、離反してゆく。

この本はまだシュルレアリストとして名を連ねていた1928年にアルベール・ド・ルティジーの名で地下出版された。

内容は散文詩とポルノ小説と自動記述の混交のような、物語があるようで

なにもかも物語に仕上げるのがブルジョアの癖だ。

などと言い切っている。

ではある種のメタ小説なのか、と言うとそうでは無い。

淫売宿での出来事、イレーヌの祖父、母から連なる農家のちょっとした歴史、そして連想ゲームか自動記述のような散文詩、それらが並べられている様子は、シュルレアリスムというより、ダダイズムのように思った。

物語の否定、19世紀的な教養小説の拒否、詩的抒情の拒否など、それまで良しとされていた価値観を否定する物語なのではないだろうか。

高校生の自分がこれを読んで何と思ったのかもう覚えていないが、アラゴンについてはこの1冊しか読んでいないことから、あまり食指は動かなかったように思った。

 

超男性/アルフレッド・ジャリ

アルフレッド・ジャリは19世紀末のフランスの小説家で、正確にはシュルレアリスム運動に参加していたわけではないけれど、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」において

ジャリはアブサント酒においてシュルレアリストである。

と語られている。

巌谷國士の解説に引用されている、ラシルド夫人によるジャリの評伝によると朝から大量の酒を呑んでいたらしい。

どうやら奇行の逸話の多いユニークな人物だったようで、その片鱗は解説でいくつか語られている。

この物語は、自転車競技と果てしないセックスの話である。

それは機械に勝る人間の能力を描写する話であり、ある種のほら話のようなものと考えればいいのかもしれない。

語られる内容と言うよりは、そのほら話の語り口を楽しむ小説なのであろう、と思った。

 

 

 

 

 

ナジャ/アンドレ・ブルトン

ナジャは不思議な物語だ。

ナジャその人は不思議ではない。

ナジャは、プルトンが一目惚れしたちょっとエキセントリックな、言動が目立つ若い女というだけの気がする。

惚れた者の弱みであれやこれや翻弄されているブルトンだが、相手を神格化させたせいで、ナジャの奇行も先鋭化しているようにも思える。

だが、ブルトンから500フランを恵んでもらったが故の、ある種のサービスのようにも思えてしまう。

二人がどんな関係にあったのか、それはどうでもいいことで、二人の付き合いからブルトンが汲み出した「美」に関する考察こそがこの小説の要のように思う。

では「美」とは何か、がナジャによって啓示されたのであろうか。

もし、そうであるなら、ナジャとの出会いによって発見された美は、別離ととも変質するのではないだろうか。

ブルトンはナジャの痕跡を追い求めているのであって、ナジャそのものではない。

全ては思い出の中に存在し、思い出以外の場所には存在しない。

それを「痙攣的」と言うのはどういうことなのか。

つまるところ「一目惚れ」という事だけなのかもしれない。

 

 

蟹工船/小林多喜二

名前は知っていても読んでいない作品は、いつになったら読むのか、あるいは一生読まずに死んでいくのか、という事を考えたことがある。

たぶん、これまで読んでこなかった経験からすると、よっぽど人生がガラッと変わるような出来事が無い限りは読まないだろうし、そんなことがあったら本を読むのだろうかと考えて、たぶん一生読まずに終わるのだろうと思った。

この本もまた、そんな一冊になるだろうと思っていた。

なのになぜ読んだかというと、とある所で「蟹工船じゃあるまいし」という喩えをしたのだけど、読んでもいないのにそんな喩えを使うのは如何なものだろうか、と思い読むことになった。

言ってみれば、売り言葉に買い言葉のようなものだ。

それで読んでみたのだけれど、まぁ、たぶん一生読まないだろうと思った自分の推測は正しい、という証明にはなった。

オホーツク海で操業し、川崎船に漁師を乗せて繰り出してカニを捕り、本船で缶詰にまでしてしまうのが「蟹工船」で、そこでの乗組員たちの姿とサボタージュ騒動の顛末を描いている。

プロレタリア文学運動がどのようなものだったか、ほぼ知らないのだけれど、この物語において描かれるのは、船員たちの悲惨な労働環境の告発とサボタージュ騒動の(最終的な)成功ではあるが、それを以てプロレタリア文学を知ったように語るのは止めておこうと思う。

発表された当時の読み手だとしたら、社会変革の情熱を突き動かされるような内容だったのかもしれないが、21世紀の今、どのように読んだのかという話をしたい。

結論から言うと、これは日本的な企業小説のバリエーションかもしれないと思った。

前半の方で、他の蟹工船が遭難しているのを無視するシーンがあるが、これは「秩父丸遭難事件」を下敷きにしたフィクションで、後半に出てくる蟹工船同士の競争関係を示すエピソードの一つだろう。

後半の方では、無線を傍受し、他船の網を引き揚げて獲物を横取りするエピソードが出てくる。

船会社は幾つかの蟹工船を所有し、それぞれの缶詰の出来高を競わせている、という会社組織内の権力構造が透けて見えている。

それぞれの蟹工船が持つノルマ達成のために、現場監督である浅川はあの手この手で船員たちを働かせ、時には船長までも使って、日本領海の外で操業し、出来高を稼ごうとする。

恐らく革命直後のロシアとオホーツク海の漁場をめぐって領海争いをしており、その庇護のため日本海軍を接待するエピソードも登場する。

小説として、日本海軍にカニ缶や酒をふるまう一方で、劣悪な労働が描かれるが、蟹工船のマネージメント層はロシア領海での操業を実現するために、日本海軍の威力を取りこむ懐柔策であり、また労働争議騒ぎの際には外部権力として介入してもらうことになる。

読み進めていくほどに、虐げられしものの告発に何かを考えるというよりは、蟹工船という企業の一部門におけるマネジメント策略を読んでしまう。

では、プロレタリア側のエピソードとしては何が描かれているかというと、遭難した船からの帰還者によるロシア農民による赤色オルグ、過酷な環境に耐えきれずに亡くなった人の粗末な葬式(水葬)、そして結末の方の2度のサボタージュ、であろう。

サボタージュに向けて団結して現場監督に対抗する姿が描かれるが、リーダー格となっているのが学生上がりであり、大半を占めている出稼ぎ労働者などはモブとしてしか描かれない。

最終的にサボタージュは成就するが、出来高低下の責任を問われて、鬼のように描かれた現場監督の浅川も解雇され、それを良い気味だと評価し、社会全体のプロレタリア革命を夢見るような終わり方は、労働者側の視点の低さのように思った。

船会社、蟹工船、そして現場監督までを通じた、カニ缶生産システムにおいて、目標達成のためのマネジメントは現場監督に任されている一方で、目標未達時にはあっさりと切り捨てられる中間管理職の姿が見える。

一方で、各地から寄せ集められた労働者たちは、函館から蟹工船に乗りこみオホーツク海で幾ばくかの金を稼ぎ、故郷に帰っていくのだろう。

個ではない労働者たちの姿は、それ自身では物語ではない。

悲惨さを嘆き、社会革命を夢として描く程度では、物語としては抒情の領域で、弱者に寄り添うといった言葉をよく吐く方々のレベルだろう。

10代の頃の自分だったら、最初の数ページで投げ出していたかもしれない。

ちゃんと読み通せたのは成長の賜物だろう。