この対話篇ではソクラテスが、当代随一のソフィストと言われるプロタゴラスを訪ね、人間の徳性は教えることが出来る、という主張に異議を唱える。
正直なところ、途中何度か、読むのをやめようかと思った。
プロタゴラスの主張に対して、明らかにソクラテス(と言うよりは、プラトンのような気がするが)の主張が誤っているように見える。
ソクラテスとプロタゴラスは、人間の徳性をめぐって対立する。
プロタゴラスは人々の差異性、相対性に着目し、その関係性において教えることは可能である、と考える。
優れた点のある人がいれば、その点において別の人を教えることは可能であり、優れた点はそれぞれの人により異なる、だから全てを知っている必要はなく、教育は可能だと言う立場である。
これに対して、ソクラテス(プラトン)は、真善美の系列に徳を加えたがり、その絶対性を主張することで、教育は出来ない根拠とするのだが、ではその人間の徳性はどのように獲得するのかは明かされない。
そして、例えば「勇気のある人々はものをこわがらないか」と聞いたあとで、「ものをこわがらない人々は勇気のある人々か」と聞き返す。
プロタゴラスも疑問を呈しているが、この問いの立て方は明らかに誤りだろう。
「林檎は赤いものか」→YES
「赤いものは林檎か」→NO
つまり、ソクラテス(プラトン)はこの世界を2種類の系列の上に並べてしまいたいのだ。つまり
「AはBではないものか」→YES
「BではないものはAか」→YES
という論理で、AとAでないものの2色の世界にしたいのだ。
そんな人間に絡まれたプロタゴラスもえらい災難だな、というのが正直な感想である。
- 作者: プラトン,藤沢令夫
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