雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

六〇年安保−センチメンタル・ジャーニー/西部邁

私の記憶の中の西部邁氏は、バブルの頃の「朝まで生テレビ」である。
政治家やら市民団体代表的な人々に向けて、栗本慎一郎氏は的外れのような人をおちょくったような突っ込みを入れ、西部邁氏は「あなたねぇ」と穏やかに話しながらも舌鋒鋭く痛いところを突き、猪瀬直樹氏は淡々と集めた情報に基づいた反論をし、大島渚氏が「バカヤロー!」と怒鳴る、ということが、毎週金曜の夜に繰り広げられていたと記憶している。(かなり適当な記憶だが)
だが、西部氏の著作を読むのは、この本が初めてだ。
正直なところ、初めて読むには聊か本筋ではないような、むしろ斜めから見てしまうような気がした。
私自身にとって、60年安保は生まれる前の出来事であり、この本に描かれる人々も、ブントの存在も、現代史上のエピソード、登場人物に過ぎない。
西部氏が幾許かの自嘲(あるいは自重?)を籠めて、センチメンタル・ジャーニーと呼んでしまうことさえ、論理的には理解できるが、心情的には同調できるところはない。
それでもなおこの本を読み耽ってしまったのは、西部氏が当時抱えていて、それは答えのない問いのように抱えている、ある種の空虚に吸い寄せられたのかもしれない。
この本では、その抱えざるを得なかった空虚を、何か代替物で満たしてしまう欺瞞に抗う、西部氏の姿が見えるような気がする。
そしてそれは、序章、終章、あとがき、新書版のためのあとがきに、激しい筆致を以て、最も書かれていると思うのだ。
例えば、人間存在における様々な二律背反のなかで平衡を保つための術が保守である、保守の抱える逆説は節度を守ることに於いて熱狂的でなければならない、という主張が、それを最も端的に示していると思う。


六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー (洋泉社MC新書)

六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー (洋泉社MC新書)