雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

Xへの手紙・私小説論/小林秀雄

以前は持っていたはずだが、いつだか手放した覚えがあったので、図書館で借りて読んでみる。
この本は、大正末期から昭和初期にかけての創作と、昭和初期から昭和30年代頃までの批評からいくつか拾い集めているようだ。
つまり、50年から70年前の文章である。
もちろん、私は小林秀雄の文章に、リアルタイムに読んでいた訳ではない。
むしろ、入試問題の題材や、現国の教材として、読まされたという感じがしている。
とはいえ、一通り読んでみるかと、新潮文庫でいくつか読んだのだと思う。
そして、再読してみたのだが、全く記憶にない。
この本の前半に創作作品が幾つか入っていたことすら忘れていた。
そして、批評についても何だかピンとこない。
敢えて誤解されやすいかもしれない言葉で云うなら、知識人、評論家という特権的立場での発言であり、読者としてそこに共感を寄せることが一つのステータスであるかのように思えてしまう。
評論として、その問題意識、着眼点の鋭さに、時折、唸らせられる。
だが、そのことに共感することは、読者である「ワタシ」にとっては何も意味していない。
だから、なぜいま、小林秀雄を読むのだろうか、という自問自答に陥ってしまう。
ばっさりと、読む価値なし、と言い切ってしまうのも、どこかで違和感を感じる。
もしかすると、古典と言うには新しすぎて、同時代性からは離れている、そんな時間感覚のせいなのかもしれない。
そう思うと、いまでも入試問題の題材として、小林秀雄は使われているのだろうか?


Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)