東浩紀と笠井潔の往復書簡、という形式の対談とでもいうものだろうか。
1948年生まれの笠井潔と1971年生まれの東浩紀、どちらにも欠けているものがあって、どちらにも評価すべきところはある。
読んでいる自分はと言うと、年代的には東浩紀に近いけれど、思想のバックグラウンドとしては笠井潔の方が近いように感じる。
ポストモダンなるものが何だったのかを総括しようとしても、そこにあるのはポストモダンでまとめようとした60年代から徐々に朽ち果てていった左翼的なものであったり、動物化で言い表そうとしているのは、新しいものに対する思考の怠慢だったり、互いに言い足りないものが目立っているようだ。
2002年当時とはいえ、9.11について沈黙せざるを得ないのは、戦争そのものが変質し、反戦の意味が変わった、と言うならば、新しいテロリズムから擁護すべきものが何かを問い直すべきではないのかと思った。
そしてそれこそが、ベルリンの壁崩壊から連なる、90年代から伏線が張り巡らされた世界地図の塗り替えであり、解読の対象だったのではないだろうか。
テロと反テロの二項対立思考で動かされてしまう論理に乗っている限りは、9.11に対してどのような態度をとるのかは、白か黒でしか表明し得ないし、二項対立でしか解読できない世界はポストモダン的な視点からですら後退している。
ポストモダンの終焉の後、モダニズム以前に回帰するのか、ただ困惑して立ち尽くすのか、それがこの対話の中心にあると思うのだが、二人はそこに辿り着けないのか、辿り着こうとしないのか、議論は空回りし続ける。
いささか東浩紀の言説は性急すぎるし、笠井潔の言説は迂遠過ぎるし、それを埋める回路の無さが、まさにいまここなのだということだろう。
それから20年経った「いま」を語るには、性急すぎる言葉と迂遠すぎる言葉の間に、無限の劣悪なコピーで埋め尽くされているようになったと思った。