名前は知っていても読んでいない作品は、いつになったら読むのか、あるいは一生読まずに死んでいくのか、という事を考えたことがある。
たぶん、これまで読んでこなかった経験からすると、よっぽど人生がガラッと変わるような出来事が無い限りは読まないだろうし、そんなことがあったら本を読むのだろうかと考えて、たぶん一生読まずに終わるのだろうと思った。
この本もまた、そんな一冊になるだろうと思っていた。
なのになぜ読んだかというと、とある所で「蟹工船じゃあるまいし」という喩えをしたのだけど、読んでもいないのにそんな喩えを使うのは如何なものだろうか、と思い読むことになった。
言ってみれば、売り言葉に買い言葉のようなものだ。
それで読んでみたのだけれど、まぁ、たぶん一生読まないだろうと思った自分の推測は正しい、という証明にはなった。
オホーツク海で操業し、川崎船に漁師を乗せて繰り出してカニを捕り、本船で缶詰にまでしてしまうのが「蟹工船」で、そこでの乗組員たちの姿とサボタージュ騒動の顛末を描いている。
プロレタリア文学運動がどのようなものだったか、ほぼ知らないのだけれど、この物語において描かれるのは、船員たちの悲惨な労働環境の告発とサボタージュ騒動の(最終的な)成功ではあるが、それを以てプロレタリア文学を知ったように語るのは止めておこうと思う。
発表された当時の読み手だとしたら、社会変革の情熱を突き動かされるような内容だったのかもしれないが、21世紀の今、どのように読んだのかという話をしたい。
結論から言うと、これは日本的な企業小説のバリエーションかもしれないと思った。
前半の方で、他の蟹工船が遭難しているのを無視するシーンがあるが、これは「秩父丸遭難事件」を下敷きにしたフィクションで、後半に出てくる蟹工船同士の競争関係を示すエピソードの一つだろう。
後半の方では、無線を傍受し、他船の網を引き揚げて獲物を横取りするエピソードが出てくる。
船会社は幾つかの蟹工船を所有し、それぞれの缶詰の出来高を競わせている、という会社組織内の権力構造が透けて見えている。
それぞれの蟹工船が持つノルマ達成のために、現場監督である浅川はあの手この手で船員たちを働かせ、時には船長までも使って、日本領海の外で操業し、出来高を稼ごうとする。
恐らく革命直後のロシアとオホーツク海の漁場をめぐって領海争いをしており、その庇護のため日本海軍を接待するエピソードも登場する。
小説として、日本海軍にカニ缶や酒をふるまう一方で、劣悪な労働が描かれるが、蟹工船のマネージメント層はロシア領海での操業を実現するために、日本海軍の威力を取りこむ懐柔策であり、また労働争議騒ぎの際には外部権力として介入してもらうことになる。
読み進めていくほどに、虐げられしものの告発に何かを考えるというよりは、蟹工船という企業の一部門におけるマネジメント策略を読んでしまう。
では、プロレタリア側のエピソードとしては何が描かれているかというと、遭難した船からの帰還者によるロシア農民による赤色オルグ、過酷な環境に耐えきれずに亡くなった人の粗末な葬式(水葬)、そして結末の方の2度のサボタージュ、であろう。
サボタージュに向けて団結して現場監督に対抗する姿が描かれるが、リーダー格となっているのが学生上がりであり、大半を占めている出稼ぎ労働者などはモブとしてしか描かれない。
最終的にサボタージュは成就するが、出来高低下の責任を問われて、鬼のように描かれた現場監督の浅川も解雇され、それを良い気味だと評価し、社会全体のプロレタリア革命を夢見るような終わり方は、労働者側の視点の低さのように思った。
船会社、蟹工船、そして現場監督までを通じた、カニ缶生産システムにおいて、目標達成のためのマネジメントは現場監督に任されている一方で、目標未達時にはあっさりと切り捨てられる中間管理職の姿が見える。
一方で、各地から寄せ集められた労働者たちは、函館から蟹工船に乗りこみオホーツク海で幾ばくかの金を稼ぎ、故郷に帰っていくのだろう。
個ではない労働者たちの姿は、それ自身では物語ではない。
悲惨さを嘆き、社会革命を夢として描く程度では、物語としては抒情の領域で、弱者に寄り添うといった言葉をよく吐く方々のレベルだろう。
10代の頃の自分だったら、最初の数ページで投げ出していたかもしれない。
ちゃんと読み通せたのは成長の賜物だろう。