雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

おとしばなし集/石川淳

どうやって石川淳に辿り着いたのかはもう覚えていないが、「狂風記」や「至福千年」といった長編作品の物語世界にあっというまに虜になって、次から次へと読み耽った。
そこには、異形や無法の登場人物たちが跳梁跋扈し、あらゆる名のつく主義を唾棄し、ただ精神の運動だけを認めるというアナーキーさが横溢していた。
その頃に買ったはずなのに、なぜかこの本は読んでいなかった。


この本は、夷齋(石川淳の雅号)先生が古今東西の良く知られている物語をベースに、変幻自在に物語を組み立てる。
それは落語調にオチがついた「おとしばなし」だったり、いつのまにか革命を語る物語だったり、元の故事や話を知らなくても構わない。(むろん知っていればもっと楽しめるのだろう。)
だいたい、古代中国の伝説上の人物たちが、落語の熊さん、八っつぁん、与太郎の如く、べらんめえ調で喋り合う。
書かれたのが昭和20年代という時代背景もあるのか、女性たちは自由を主張し、あっけらかんと裸体をさらす。
これをパロディと称するのかどうかはわからないが、既存の物語から枠組を借りてきて、そこから別の物語を作り上げてしまう。
そう説明すると、マックス・エルンストのコラージュロマンか、ウィリアム・S・バロウズのカットアップに似ているかのように見えるかもしれないが、むしろ俳諧における本歌取りに近いかもしれない。
そして、おとしばなしとして、話はすとんとオチが付くから、そこには意味ありげな裏など無い。
後半のほうは、それでも革命や自由といったテーマを扱っているかのように見えるが、笠井潔が分析したような、自ら産み出した観念に取り憑かれた陰気な革命思想とは全く無縁である。
夷齋先生が言うのは、あくまで、精神の運動を体現するキーワードとしての革命なのだろう。
そして、その語り口は江戸の戯作、黄表紙のテンポがある。
おそらく近代文学が消そうとしてきた、日本語のリズムが生きている。
七五調ということではないが、会話と地の言葉の釣られてするする読めてしまうのだ。
この本には、江戸の方から爽やかな風が吹いてきている。