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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

本と逃亡犯

つい先日、一連のオウム真理教事件の特別指名手配犯がマンガ喫茶で逮捕され、その所持品から教団関係の本が10数冊見つかったという。
ニュースでは、未だ教団への帰依を表すものとして捜査している、と報じていた。
その後のニュースを丁寧に追いかけてはいないが、「本を所持=信者」の構図を否定するような発言は見かけない。
彼らの起こした数々の犯罪は、到底、許しがたいものであり、何ら同情する気にもなれない。
また、彼らが起こした事件の被害者の方々に対して、私が何か言える立場ではない。
だが、メディアが報じた、「本を所持=信者」という発想の短絡さには、ちょっと呆れてしまう。
本当にそんなことを思っている人がいるのだろうか?
だとすると、新約聖書を持っていたらキリスト教徒、コーランを持っていたらイスラム教徒、と断じてしまうような危うさがそこには在る。
(当然ながら、二人で足の裏を合わせていた噂があるのでボコノン教徒、と報じるセンスなんか、到底、持ち合わせていないし、事件が事件だけに不謹慎かもしれない)
そしてさらに言えば、そう断じてしまうことで、「危ういもの」「怪しいもの」としてカテゴライズし、自分達の日常から切り離そうとしているように見える。
逃亡犯が私達の日常に身を潜めていたが、「実は」教団の本を隠し持っていたんですよ、と言いたいようだが、その「実は」には、何の意味もない。
本を持っていようがいまいが、彼らは犯罪者なのだし、本を持っていたって、犯罪者ではない人だっているのではないだろうか。
そこには、本を持っていることを、ひとつのメルクマールとさせたがっているような、厭らしい意思を感じてしまう。


もうひとつ。


逃亡する生活の中で、それらの本は、どう読まれたのだろうかと想像する。
明らかに身元が割れる証拠であるものを、大事に持ち続けたのだろうか。
それまでの自分ではない、誰でもない誰かとして逃亡するのであれば、過去の一切合財は捨ててしまうべきではないだろうか。
だが、彼は本を捨てなかった。
恐らくは、捨てることができなかったのだろう。
むしろ、捨てることを断固として拒絶した、と思っても良いかもしれない。
生身の人間の誰よりも近く、それは現実の麻原よりも、それらの本に書かれた言葉が、彼の中心の方にあったのではないだろうか、と想像する。
何かそこには私怨や欲望による犯罪者の逃亡とは異なる何かがあるような気がする。
もちろんそれが彼らに対する同情を生むものではないけれど、引っかかる何かがある。
むろん、そこに物語や、ドラマ性を見いだしたいのではない。
その本に何が書かれているのかは興味が無いし、それについてどう思っているかを知りたいとも思わない。
だが、言葉を大事に抱えて、日常の中に身を潜めて、全世界に抵抗する姿(それは、潜伏であり、逃亡である)が、ひどく忌まわしいものとして感じる。
他者との交通を拒絶し、自分自身との対話の中で純化していった言葉は、本来は外部にあって、自分を相対化していたはずの観念であったものが、やがて、自分自身を食いつくし、絶対的存在として自分自身も世界も、その内部に見いだしてしまう。
観念的倒錯。
出口の無いおぞましさ。
それは、本によってもたらされたのではなく、観念的存在による本の倒錯なのだけれど、恐らく本のせいにされるのではないだろうか。
青少年ポストやコンビニの雑誌規制のような、焚書というもうひとつの倒錯に繋がらなければ良いのだけれど。