最近の興味の対象にAIがあって、その中心にある考え方を知りたくなった。
本屋でいくつか本を拾い読みして、どうやらベイズ統計学というのが重要らしい、とたどり着いたので、ちょっと入門書を読んでみることにした。
統計学は今まで全く接点のない分野だったので、薄いながらもなかなか読み応えがあった。
高校数学ぐらいの知識があれば、読み通せると思うのだけれど、その高校数学がいささか心許ない。
それで、読み通すのに時間がかかってしまったが、ベイズ統計学の入口ぐらいはわかったような気になれる。
向田邦子氏は親戚の叔母さんのような印象がある。
実際、自分の親たちと生年が近く、東京生まれではあるけれど、それだけではないような気がしている。
この本は、生前に週刊文春で連載されていた「女の人差し指」を中心に、未刊行だったエッセイを集めた本らしい。
台湾での航空事故で急逝されたニュースは朧げに記憶している。
様々な短いエッセイの寄せ集めながら、ここには向田邦子氏の姿が浮かび上がるようだ。
その具体的なイメージが親戚の叔母さんなのだ。
そんなに親しくは無いけれど、何年かに一度は会うし、会ったら自分の親とは違う、でもどことなく親たちと似たものの見方の話をする、そんな人だ。
前にも書いたと思うが、若い頃には向田邦子氏の文章の良さが分からなかった。
年を取ってから分かるものの一つだと思っている。
詩を読むのはどこかむず痒いところがあって、ましてや少女趣味全開だとしたら、ちょっと小っ恥ずかしいと思うけれど、寺山修司の少女趣味はどこかフィクションめいたところがあるように思っている。
寺山修司の詩は10代の頃に初めて読んだ記憶があるのだけれど、改めて約半世紀の時間を経て読んでみたらどう思うかというと、若干の懐かしさと言葉遊びのセンスに良いなと思った。
10代の頃に詩を読んでいたのは、短い言葉で放たれる抒情に流されるためではなかったと思い出した。
抒情に流されるのであれば、少女漫画のコマの端々に散りばめられたセリフを追っていった方が目的に近いような気がするし、近代詩人でも他にたくさんいるだろうが、そういう詩は良く分かっていない。
図書館で手当たり次第に読み漁っている中で、寺山修司にピンと来たのは、抒情そのものではなく、抒情を装っているスタイルというか、むしろ抒情を題材とした言葉遊びだったのだろう。
恋慕の思いを伝えるスタイルのようでありながら、言葉遊びをしている部分を面白いと思ったのだと思う。
ともあれ、通勤電車の中で詩集を開くのは、些か気が引けるのも事実である。
これは通学電車の中で読んでいた10代の頃から変わらない。
どこかで勧められて読んでみたが、著者は高名なバスケットボールコーチらしい。
不勉強で全く知らなかった。
文中にもしばしばバスケットボールの話が出てくる。
だからといって、バスケットボールやスポーツに特化した話かというとそんなことはなくて、むしろベーシックな話題ではある。
ともすれば根性論なので、たぶん好き嫌いは分かれるのかもしれない。
例えば物語を読むことは、世界の因果律を想像することであり、ビッグ・バンについての解説書を読むことは宇宙の始まりを想像することであり、クウォークについての解説書は目に見えない物質の究極を想像することであり、料理本を読むことは未知の味覚を想像することなのだと思う。
読書は想像力による未知の感覚の開拓であり、視覚や知覚と同じように、味覚を拡大することができるのではないかと思っている。
さて、この本は従来のレシピ本のように大さじや小さじではなく、グラム数やパーセントで表記しているのが特色だと思った。
また、従来とはちょっと違って、必要最低限の材料で作っていくところが、ミニマル料理たる所以だろう。
どんな味なのかと想像が楽しくなるような本だと思った。