星野源氏の本を読んだのは初めてであった。
もしかすると、どこかの雑誌でコラムなどを読んでいるのかもしれないが、覚えていない。
日常のことだったり、思い出話だったりするが、どれも自然なスタンスの文章だと思った。
巧拙を云々するような文章ではないが、SNSに垂れ流される言葉とは違う。
文章を書くようになったきっかけや、演劇、音楽への考えなど、なるほど面白いなと思うところもある。
「星野源」という人となりに興味を持った。
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何となく図書館で手に取ってみた。
定年という区切りがだんだん見えてきたのもあるし、世間的にも起業ブームがあると思うので、ちょっと知識を仕入れておくのも悪くないと思っている。
実際に起業するかどうかはまた別の話として、起業するためのポイントを知ることができた。
なるほどと思うポイントもあれば、ちょっと時代遅れな考えもある。
何もしない、ということを主張する、というのはある種の皮肉めいたものだと本の始まりの方で著者も述べているが、「何もしない」ということを額面通りに、というか、自分の基準で受け取ってはいけない。
著者はアメリカのアクティビスト、ってことは活動家のようだ。
そういや偽名で入院してた70'sの日本の活動家が、本名を告白して逝去したニュースが最近あったっけ。
そんなことはともかく、どこかで勧められたので読んでみた。
あてにならないことで有名な某大手ECサイトのレビューで一つ星があるらしいので楽しみにしていた。
率直に言って読みやすい本ではない。
これだから活動家って奴は、とちょっとだけ思いながら読み進めて、読みにくいながらも言わんとすることが少しづつ分かってくると、なるほどと思うところはある。
まずは、アテンション・エコノミー、注意経済に対する抵抗がある。
SNSは際限なく時間を奪っていくことで成り立つ世界であり、垂れ流される大量の無関係な情報をスクロールさせている。
デジタルデトックスの話から、現実に対する解像度が上がる話が出てきたかと思うと、ヒッピーコミューンが挫折した話に移る。
ここではない別のコミュニティを夢想することは、絶対的な権力者と従順なメンバーに行きつくという分析が、皮肉めいた調子で語られる。
こんな調子でこの本の解説をしていくのは本意ではないので、いったん止めるが、読みにくさの原因は、著者の思考の流れで書かれた随筆だという点であるように思った。
主張したいことに対して、論理的には書かれていない。
こういうことがあってこう思っている、こう思うことはこういうことでもあり、またこういう意味もある、といった調子に、曲がりくねった一本道を歩くような本である。
全てに同意できるものではないが、アテンション・エコノミーに対する抵抗というのは、心に留めておいた方が良いと思った。
言うまでも無く人生は有限であり、残された時間の長短はあれ無限ではないのだから、無駄な情報をスクロールしてもそこには有益なものなど皆無だし、分かりやすコンテキストには気を付けた方が良い。
向田邦子氏は親戚の叔母さんのような印象がある。
実際、自分の親たちと生年が近く、東京生まれではあるけれど、それだけではないような気がしている。
この本は、生前に週刊文春で連載されていた「女の人差し指」を中心に、未刊行だったエッセイを集めた本らしい。
台湾での航空事故で急逝されたニュースは朧げに記憶している。
様々な短いエッセイの寄せ集めながら、ここには向田邦子氏の姿が浮かび上がるようだ。
その具体的なイメージが親戚の叔母さんなのだ。
そんなに親しくは無いけれど、何年かに一度は会うし、会ったら自分の親とは違う、でもどことなく親たちと似たものの見方の話をする、そんな人だ。
前にも書いたと思うが、若い頃には向田邦子氏の文章の良さが分からなかった。
年を取ってから分かるものの一つだと思っている。
詩を読むのはどこかむず痒いところがあって、ましてや少女趣味全開だとしたら、ちょっと小っ恥ずかしいと思うけれど、寺山修司の少女趣味はどこかフィクションめいたところがあるように思っている。
寺山修司の詩は10代の頃に初めて読んだ記憶があるのだけれど、改めて約半世紀の時間を経て読んでみたらどう思うかというと、若干の懐かしさと言葉遊びのセンスに良いなと思った。
10代の頃に詩を読んでいたのは、短い言葉で放たれる抒情に流されるためではなかったと思い出した。
抒情に流されるのであれば、少女漫画のコマの端々に散りばめられたセリフを追っていった方が目的に近いような気がするし、近代詩人でも他にたくさんいるだろうが、そういう詩は良く分かっていない。
図書館で手当たり次第に読み漁っている中で、寺山修司にピンと来たのは、抒情そのものではなく、抒情を装っているスタイルというか、むしろ抒情を題材とした言葉遊びだったのだろう。
恋慕の思いを伝えるスタイルのようでありながら、言葉遊びをしている部分を面白いと思ったのだと思う。
ともあれ、通勤電車の中で詩集を開くのは、些か気が引けるのも事実である。
これは通学電車の中で読んでいた10代の頃から変わらない。