雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

無頭人(アセファル)/ジョルジュ・バタイユ


普遍経済学と消費と蕩尽とニーチェと共同体

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)


バタイユを知ったのは、高校生の頃に澁澤龍彦栗本慎一郎経由だった。消費と蕩尽、死に至る生の称揚、そんなキーワードでしか捕らえられていなかった。(高校生の脳ミソじゃその程度の理解しか出来なかった)
大学の同級生は、「内的体験」にどっぷりはまっていて、自分は「エロティシズム」と「眼球譚」にはまっていて、キリスト教の「法悦」を突き抜けて「普遍経済学」を予感させる神秘思想家ぐらいの認識でしかなかった。
その後、様々な著作を読むにつれて、バタイユの射程がもっと広いものだったことに気づいた。
「アセファル」も未完に終わっている試みのひとつだと思う。
この本は、刊行された「アセファル」なのだが、実は秘密結社としての「アセファル」が存在しているらしい。
その辺の詳細については、明らかにされていないのであるが、その片鱗が見え隠れしている。
ニーチェの再評価とファシズムへの抵抗、そして悪を必要としてしまう共同体を突き抜けようとする試みといえると思う。

そして、この本の直前の時期にあたる、シュルレアリスムとの関わりの中で、バタイユは何を目指そうとしていたのか?
バタイユはまだまだ読みきれていいない。