雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

暴力と聖性/エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ

買ったのに読み通していない本が何冊もある。
読み通せない理由は様々だが、例えば、全く理解できなかった本もある。
レヴィナスのこの著作も、そういった本だ。
改めて読んでみたのは、ただの偶然であり、たまたま、ボルヘスの「砂の本」とバタイユの「無頭人(アセファル)」の間に並んでいたのだ。
そして、読み返してみると、朧げながらその思想に触れることが出来た気がする。
その論理は、「主体」を第一義に据える存在論を捨て、「他者のために身代わりとして有責である」ワタシを第一義に据える。
つまり、ワタシという存在から出発するのではなく、他者のために存在するワタシという存在を第一に想定する。
この拙い説明では解り難いかもしれないが、もう少し説明を続けてみよう。
この想定する他者とは、到達不可能な存在であり、何らかの見返りを期待するのでなく、ワタシは無限の奉仕を要求されている。
ワタシにとっての他者の関係は、無作為の彼にとっての私にも同様であり、社会はそうした他者に有責なワタシが複数存在する。
それぞれの「ワタシ」は到達不能な他者に対して有責であり、他者を配慮した存在たることで、そこに善が実現される。
つまり、レヴィナスにとって存在に先行する他者に対しての有責、つまり倫理を第一に想定する。
これがレヴィナスの思想の全てではなく、端緒の欠片に過ぎない。
丹念に構築されているその思想を、全て理解出来ているとは言い難いが、この本の中心はレヴィナスへのインタビューであり、他の著作に比べて判り易かったのかもしれない。
そして、その思想の背景には、アウシュビッツが存在する。
ナチスによるユダヤ民族のジェノサイドの出現により、主体から出発する存在論は根底から危機に晒されている、とレヴィナスは考える。
そして、同じことが、第二次大戦以降も世界各地の紛争で繰り返されているのではないだろうか。
したがって、レヴィナスの思想は有効、もっと言えば、むしろ今こそ必要なのかもしれないとも考える。
更に推し進めて考えると、存在の根底から否定されたような先の震災から戻って来るためにも、有効ではないだろうか。
もっともこれはただの私見なのだが、呪文のような「がんばろう」はもう聞き飽きた。

暴力と聖性―レヴィナスは語る (ポリロゴス叢書)

暴力と聖性―レヴィナスは語る (ポリロゴス叢書)