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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

「いき」の構造/九鬼周造

ちょっと前に、青空文庫で読み終わっていた。
「いき」とは何か、を考察した本である。
そんなのは無粋だというおちょくりは置いておいて、こういった「日本的なるもの」を解説するのは、どこを目指しているんだろうと思う。
世界の異文化に向けて発信するものなのかというと、そうではない。
「わっかるかな〜?わっかんねぇだろうな〜」という、懐かしの松鶴家千とせ氏のギャグかのように話が進む。
これは理解して欲しいのか、して欲しくないのか判らない。
すると、これは自文化内での自己認識のために書かれた本なのだろうか。
そう判断するほどに、九鬼周造を知らない。
うっすらと上方文化より江戸文化が優位だという考えが滲み出している。
「いき」が何かはこの本では判らないが、「いき」というものが何より優れたものだという考えが伝わる、そんな本だと思った。


岩波文庫は良く見かける
「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

講談社学術文庫にも入っているらしい
「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

マンガにもなっているようだ
「いき」の構造 (まんがで読破)

「いき」の構造 (まんがで読破)


(追記)
九鬼周造氏が説明する「いき」が何故判らないのか、ということを考え直してみる。
決定的なのは、私に日本の古典演劇に関する素養が欠けているので、そこから派生する説明は、ピンと来ない。
仮に素養があったとして、何か判ったとしても、それは理解したことなのだろうかという疑問が残る。
つまり、説明に説得されただけであり、「いき」ということを理解したことになるのだろうか。
ここでもうひとつの疑問に至るのだが、「いき」ということが日本固有の現象だという態度を示していながら、その説明自体が日本固有のものとなってしまっているとしたら、これはどこに向かっている議論なのだろう。
つまるところ、日本固有の文脈を使って、日本固有の題材を語る、というこの本の論理の組み立て方に、違和感を覚えた、というのが、私が判らないことの正体なのだろう。
しかし、例えば校注や解説といった、補助線を引く文章があったなら変わったかもしれない。
あるいはいっそのこと、マンガで読む、といった、別表現への翻訳を通したほうが理解できたのかもしれない。