この本もまた図書館で借りた。
というか、もう絶版になっているようだ。
「栗本慎一郎「自由大学」講義録5 なぜ、私たちは人間なのか」
こちらは副題だろうか。
タイトルの通り、脳科学と心と言葉と人間存在、というテーマで語られる。
「エラノス会議」のようなものを目指していたのだろうか。
また、90'sの栗本慎一郎が志向していた統一理論的なトーンが強いようにも思う。
たぶんこの頃より、だいぶ世界は後退してしまったかのように思える。
この本もまた図書館で借りた。
カレーライスに関する文章を44篇集めた本。
家庭のカレーが一番だという意見は容易く想像がつくが、案外、本場のカレーも人気がある。
軽くサラッと読めるが、時折、クスっとしたり考えさせられるのもある。
この本もまた図書館で借りた。
元の書名は「田中角栄の遺言」だそうである。
実は小室直樹を読むのはこれが初めてである。
市井の学者と言われるのもなるほど頷ける。
非常に論理的であり、正面切った正論を紡ぐ論客であると思った。
日本が近代国家になりきれていない、その象徴的事件がロッキード裁判であり、その被告たる田中角栄こそが、近代政治を体現していたのだという主張である。
義務教育で習った三権分立について、その中身にまで覚えている方は少ないかもしれない。
そして、実際の社会の動きは、そうはなっていない。
学校の授業で習うのは理念であり仕組みであるが、それが現実にはどうなっているかを読み取るのは別の事だろう。
マスメディアで流されるニュース、およびその解説は、特定の考えに基づいていたり、考えすらなくスキャンダラスに垂れ流されているため、ノイズはさらに大きくなっているように思う。
この本での小室直樹による解説は、明確な根拠があり、シンプルな論理である。
民主主義(デモクラシー)とは何であるか、今の日本はどうなっているのかを考える手立てになると思う。
久しぶりに読む安部公房は、相変わらず居心地の悪さのようなものが漂っていた。
恐らく永遠に居心地の悪い小説のような気がする。
いまさらあらすじを紹介したり、何のメタファーなのかという話をするのは、止めておこうと思う。
昆虫採集を趣味とする男が砂の中の家に囚われてしまうという設定だけでも、この物語は価値や視点の転倒を意図したものだとわかる。
転倒すること、逆撫ですること、それが主題なのだとしたら、居心地の悪さは説明しきれていないような気がする。
捕える者と囚われる者、支配と被支配、見ることと見られること、そういった二項対立の転倒だけではない物語の居心地の悪さは何なのだろうか。
全ては主人公の目を通して語られてゆくが、それが何を意図した出来事なのか、そこにどんな背景があるのかは主人公の想像の中でしかない。
まるでCamera Obuscraで映し出された世界のようだ。
物語の中で発生する出来事は、主人公の思惑とは逆の方向に進んでいくが、それはつまり主人公だけが世界の外にあることに他ならない。
これは対立というよりは、疎外というべきか。
世界線に含まれないことの居心地の悪さというのはあるかもしれないが、それだけでもなさそうだ。
安部公房はまた読み返すだろう