久しぶりに読む安部公房は、相変わらず居心地の悪さのようなものが漂っていた。
恐らく永遠に居心地の悪い小説のような気がする。
いまさらあらすじを紹介したり、何のメタファーなのかという話をするのは、止めておこうと思う。
昆虫採集を趣味とする男が砂の中の家に囚われてしまうという設定だけでも、この物語は価値や視点の転倒を意図したものだとわかる。
転倒すること、逆撫ですること、それが主題なのだとしたら、居心地の悪さは説明しきれていないような気がする。
捕える者と囚われる者、支配と被支配、見ることと見られること、そういった二項対立の転倒だけではない物語の居心地の悪さは何なのだろうか。
全ては主人公の目を通して語られてゆくが、それが何を意図した出来事なのか、そこにどんな背景があるのかは主人公の想像の中でしかない。
まるでCamera Obuscraで映し出された世界のようだ。
物語の中で発生する出来事は、主人公の思惑とは逆の方向に進んでいくが、それはつまり主人公だけが世界の外にあることに他ならない。
これは対立というよりは、疎外というべきか。
世界線に含まれないことの居心地の悪さというのはあるかもしれないが、それだけでもなさそうだ。
安部公房はまた読み返すだろう