料理本は味覚の想像力を鍛えるのだと思う。
この本はレシピ集というよりエッセイに近いのだが、写真は一切なく、池田葉子氏のイラストで内容が補足されている。
では何のエッセイなのかというと、料理の手順に近く、レシピ集のようでもある。
正月からぱらぱらと、合間に読んで、ようやく読み終わった。
ステーキを焼いてみたくなった。
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詩を読むのはどこかむず痒いところがあって、ましてや少女趣味全開だとしたら、ちょっと小っ恥ずかしいと思うけれど、寺山修司の少女趣味はどこかフィクションめいたところがあるように思っている。
寺山修司の詩は10代の頃に初めて読んだ記憶があるのだけれど、改めて約半世紀の時間を経て読んでみたらどう思うかというと、若干の懐かしさと言葉遊びのセンスに良いなと思った。
10代の頃に詩を読んでいたのは、短い言葉で放たれる抒情に流されるためではなかったと思い出した。
抒情に流されるのであれば、少女漫画のコマの端々に散りばめられたセリフを追っていった方が目的に近いような気がするし、近代詩人でも他にたくさんいるだろうが、そういう詩は良く分かっていない。
図書館で手当たり次第に読み漁っている中で、寺山修司にピンと来たのは、抒情そのものではなく、抒情を装っているスタイルというか、むしろ抒情を題材とした言葉遊びだったのだろう。
恋慕の思いを伝えるスタイルのようでありながら、言葉遊びをしている部分を面白いと思ったのだと思う。
ともあれ、通勤電車の中で詩集を開くのは、些か気が引けるのも事実である。
これは通学電車の中で読んでいた10代の頃から変わらない。
どこかで勧められて読んでみたが、著者は高名なバスケットボールコーチらしい。
不勉強で全く知らなかった。
文中にもしばしばバスケットボールの話が出てくる。
だからといって、バスケットボールやスポーツに特化した話かというとそんなことはなくて、むしろベーシックな話題ではある。
ともすれば根性論なので、たぶん好き嫌いは分かれるのかもしれない。
例えば物語を読むことは、世界の因果律を想像することであり、ビッグ・バンについての解説書を読むことは宇宙の始まりを想像することであり、クウォークについての解説書は目に見えない物質の究極を想像することであり、料理本を読むことは未知の味覚を想像することなのだと思う。
読書は想像力による未知の感覚の開拓であり、視覚や知覚と同じように、味覚を拡大することができるのではないかと思っている。
さて、この本は従来のレシピ本のように大さじや小さじではなく、グラム数やパーセントで表記しているのが特色だと思った。
また、従来とはちょっと違って、必要最低限の材料で作っていくところが、ミニマル料理たる所以だろう。
どんな味なのかと想像が楽しくなるような本だと思った。
かなり前に誰かのおすすめされたので、図書館で借りてみたのだけれど、かなり評判になっている本らしく、半年以上待って借りることができた。
自己対話の話し相手であるChatterをどう飼い慣らしていくのか、というハウツー本である。
確かに、自分の外にいる誰かと話しているよりも多くの時間を、自分の中の誰かと話している。
自分の中で話すことが悪いのではないが、自分のメンタルを左右しているのもまた、自分なのだという、当たり前のことを再認識した本だった。
料理本というよりは、料理文化の本のようだと思った。
例えば美味しいものを食べた、という話ではなく、この美味しい料理は素材の美味しい時期を知っている先人の知恵が云々、といったニュアンスで伝わるだろうか。
それが面白い時もあるが、何となく冷めた目で眺めてしまう。
酒が入ると壮大な与太話をしてしまう人がいるが、そんな感じにも似ている。
それが悪いという訳でもなく、そういう考えなのだ。