雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

フーコーの「全体的なものと個的なもの」/ミシェル・フーコー


権力に関するフーコーの短い講演メモである。
この本を読んだのはもう10年近く前か。
改めて読んでみたが、短いながら読み応えがあった。
権力の分析として、第一章では古代ギリシア的な「シテ」とヘブライ的な「牧人」の観念から始まる。
人々の集団を捉える場合、集団に寄り添い、纏め上げ、導いていくことを使命とするような、そんなあり方がある。
それは、羊飼いの比喩でも表され、唯一無二の神の代理としての「権力者」の姿がある。
権力者はその羊飼いたる使命に準じ、人々との関係を規定する。
「シテ」はそうではなく、共同体の合意たる法に従う。
どちらが優れているとかいう議論ではなく、権力の在りようとして二つの形が示されている。
牧人たる権力は、人々を抑圧し、強制するだけではなく、その生命を保護し、より良い方向へ導こうとする。(それが本当に良いものかどうかではなく、良いと思われる価値観の方向である)
そして、第二章ではフーコーは近代の「ポリス」の概念が法的に現れた文書の分析に移る。
そこでは、司法、軍隊、財務以外の、社会的なあらゆることを統治しようとする意思の萌芽が見て取れる。
短いながらそういった、近代以降の国家の概念に結びついた権力、しかもそれは抑圧や強制、暴力といった手段だけではなく、個々人の生活のコミュニケーションのあり方にさえ影響するような、実体ではない不可視の権力にまで示唆をしている。
特に私が気になったのは、合理化という言葉に、どんなタイプの合理化をイメージさせているのか注意しなければいけない、という指摘である。
アンチではない、権力構造そのものを無効にするようなそんな…