雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

月と六ペンス/サマセット・モーム

ちょっと今まで読んでいなかった本を読んでみたくなった。
この本の前に読んだ「かもめのジョナサン」もそうだが、名作と言われているものには何かあるのだろうと思っている。
誰かが素晴らしいと思うものは自分だって素晴らしいと思うかもしれない、という訳なのだ。
とは言え、それを理解できるかどうかはまた別の話だけれど。
改めて、サマセット・モームやこの「月と六ペンス」という作品について、あらましを書きたてる必要も無いだろう。
この作品はポール・ゴーギャンの伝記に、インスパイアされて作り上げられたという。
あくまでインスパイアされただけだから、内容はモームの考えに他ならないだろう。
物語の主人公である天才画家、チャールズ・ストリックランドを、物語の語り手である私が回想するという構造だ。
簡単に言うと、言われてみればあいつは天才画家だったのだなあと思うね、人間的には最低の奴だったけどね、という話だ。
主人公である画家と語り手である私は、決して相容れることは無い。
むしろ、語り手である私は、作品の価値すら判っておらず、死後に評価され始めたから価値があると思い始めた節もある。
生前から画家を評価していたダーク・ストルーヴは、自らは画家としての才能は無いが、芸術が理解できるのだが、徹底的に戯画化されている。
ストリックランドは自らの絵を描きたいという欲求のままに生き、それを阻害するあらゆるものを払い除け、世間的な付き合いなど犠牲にするのも厭わない、云わば芸術至上主義的な姿で描かれる。
思うに、モームにとって芸術とは嘲笑の対象に他ならないということだろうか。
芸術を体現するストリックランドも、芸術を評価するストルーヴも、共に語り手の私にとっては、到底相容れない価値観を持った大馬鹿野郎たち、とでも言いたいようだ。
だが、もうひとつ登場する女性たちも、語り手の私にとっては、相容れない生き物なのだ。
捨てられるストリックランドの妻、自殺するストルーヴの妻、タヒチでストリックランドと共に暮らすアタ、その誰もが、語り手の私にとっては理解できない行動をする。
語り手である私が作者と同じであるとするなら、登場人物たちは随分と悪意を込められて描かれているように思う。
そう思うと、モームというのは非常にシニカルな作家なのではないだろうか。
少なくとも物語の語り手がどの登場人物にも肩入れしない、していたとしてもそこに距離を保っているというというのは、一筋縄では行かない作家の様な気がしたのだ。


月と六ペンス (新潮文庫)

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