雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

本屋というもの

ふと、仕事帰りに高校の最寄り駅で途中下車してみた。
固有名詞は本題と関係ないので、伏せておくこととしよう。
高校生の頃、よく使っていた本屋に行ってみた。
地元の本屋にない、岩波文庫国民文庫が並んでいたのを記憶している。
だが、売り場は当時の三割ほどに縮小し、岩波文庫は数列しかない。
そういえば、書店名も変わってしまっている。
高校生の頃はあと2店舗あったのだけれど、社会人になった頃、無くなったのを記憶している。
代わりに出来た本屋に行こうと思ったが、こちらはフロアガイドから無くなっていた。
最近出来たチェーンの古本屋に行ってみたが、品揃えが貧弱だ。
新刊を売る本屋がなくなっているのだから、古本の仕入れもお寒くなるのだろうか。
高校生の頃は本を買うお金が小遣いだけじゃ足りなくて、昼飯代を立ち食い蕎麦で浮かせてまで、本を買い漁っていたのを思い出す。
200円浮かせれば、薄い文庫の新刊が一冊買えたし、古本屋によっては四冊買えた。
高校の最寄り駅から、実家の最寄り駅までの間の駅の、本屋と古本屋の品揃えは何となく把握していた気がする。
実家の周りの本屋も古本屋も、2000年になる頃にはほとんど無くなっていたっけ。
代わりにターミナル駅の周りには大型店舗が出来てきたのも、その頃だったような気がする。
そう思うといまは、何でも揃う大型店と、あればちょっと便利ぐらいのコンビニのような小型店になってしまった気がする。
一方で品揃えはと言えば、どちらもスケールの違いだけで、あまり偏りは無いような気がする。
暇つぶしの雑誌なら手近な小型店、欲しい本があれば大型店、と、それで一通りの要求は満たしていそうだ。
しかし、本屋を巡って、見たことも無い本に出会う、といったことは出来にくくなっているような気がする。
小銭を握り締めて、古本屋のごみの山のような中から、絶版の安部公房倉橋由美子の文庫本を見つけ出す、といったことは、今では考えられないのかもしれない。
もっとも、そんなことをしたがる人間がいなくなった、ということの結果なのかもしれない。
だが、本屋の個性が無くなって本屋巡りをする人が減ったのか、あるいは、本屋巡りをする人が減ったから本屋に個性が不要になったのか、どちらが原因なのか、どちらが結果なのかは分らない。
もちろん、セレクトショップのような本屋も存在するのだけれど、それとは別の話だ。
生活の中での本屋という存在が、均質な存在になってしまった様な気がするという話である。
そしてそれは、本を買う消費者の欲望が均質になった結果なのかもしれないとも思った。
しかし、本屋に限った話ではなくて、どこでも同じ品質の商品が手に入る大型スーパーの存在というもの、逆を返すと、同じ品質のものしか手に入らない店だけが存在することで、あらゆる欲望は均質にさせられているのかもしれない。
どこでも同じものを食べて、同じ音楽を聴いて、同じ本を読んでいたら、みんな同じ事しか欲望しなくなる、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。