雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ホーニヒベルガー博士の秘密/ミルチャ・エリアーデ


ひそかなたのしみ

ホーニヒベルガー博士の秘密 (福武文庫)

ホーニヒベルガー博士の秘密 (福武文庫)


何故、エリアーデはこのような小説を書いたのか?
もとい、書かずにはいられなかったのだろうか?
一般的には幻想小説とも言われるような、現実と乖離したようなプロットだ。
それは個人的な愉しみのためだろうか?
物語の枠組みはそう奇抜なものではない。
だが細部に着目すると、宗教学を下敷きにしたディテールが詰め込まれている。
つまり、宗教的なもの、オカルト的なものを「宗教学」としてではなく、よりパーソナルなものとして扱いたかったのではないだろうか?
小説は主人公の視点で進められる。
そして主人公は、それらのディテールに翻弄される。
それらを観察するのではなく、主人公との関わりが発生するのだ。
エリアーデは小説の主人公のように、現実を越えたモノ(それはある意味、シュルレアリスムか?)との交流を果たしたい、と願っていたのではないだろうか?
通常の意識での時間の流れと、ある種の宗教的な時間の流れは必ずしも一致しない。
それはどちらが正しいのかということではなく、そういった意識変容の状態では起こりうることなのだ、ということを、通常の意識の枠組みの中で表すと、それは幻想的とでも形容される物語となってしまう、ということかもしれない。
或いは、ソッチの側からコッチに来ていただけなのかもしれない。
隠されたメッセージとは何だろうか?