雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

神の裁きと訣別するため/アントナン・アルトー

アルトーについて語ろうとすると、どんな言葉も適切でないような気がしてしまう。
読んでいる時の高揚感と裏腹に、何か言葉を発してしまうと、本当は理解できていないような気がしてくる。
それは、アルトーの語る言葉と、自分の語っている言葉の距離が問題なのだろうと考えている。
しかしその距離を縮めることは、「あっち側」へと跳躍してしまうことのような気がする。
だから、惧れと苛立ちが入り混じった感覚を抱えたままに、言葉を紡ぎ出すしかないのだろう。
この本はアルトーの最晩年に書かれた二つの作品が収められている。
「神の裁きと訣別するため」は、ラジオドラマとして書かれたという。
そのせいか本文の所々に、翻訳不可能な音響詩のようなものが挿入される。
ここで主張されているのは、「身体」の再編である。
「身体」は猥雑さや獣性と、それらに結びついた宗教的なるものと、苦痛と無を基調とする精神がせめぎ合う場であり、「身体」を再編し(ドゥルーズ=ガタリが借用した概念である)「器官なき身体」を獲得することによって、真の自由に至ると主張する。
シュルレアリスムにとって、と言うよりはアンドレ・ブルトンにとっての、真の自由との遠さを思う。
ブルトンは無制限の無意識こそが真の自由の領域として、賛美し憧憬するのに対し、アルトーは肉体も精神そのものも否定し、否定の極限として真の自由を想定する。
むしろ、グルジェフにおける、隷属状態の意識からの開放の方が近い。
もうひとつの「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」は、ゴッホ精神疾患についての論文への反論として書かれたという。
反論であるから、ゴッホは狂人ではなかったと主張するのみならず、狂人としてでっち上げられたと主張する。
それはまるで、アルトー自身のことを語ってもいるようだ。
アルトーの作品を読むと、その言葉の流れに取り込まれてしまうのだが、読み終えると、理解できていたのか判らなくなる。
器官なき身体」によって獲得する真の自由、そこには何があるのだろうか。


神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))

神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))