雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

坊ちゃん/夏目漱石


うんでれがん うんでれがん

坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)


たぶん中学生か高校生の頃に読んだのだと思うが、改めて読んでみると、これはこれで瑞々しい。
大体、学校の授業はうわの空で、何か別のことを考えているか、テストまでは覚えているが、テストが終われば忘れてしまっているような気がする。
この本を一言で言うなら、主人公の「坊ちゃん」が初めて社会に出て行く姿を描いた青春小説であろう。
だが、主人公の坊ちゃんが、東京や清から遠く離れた(おそらく)松山で、初めての職業である教師を務めることで、何が変わったのだろうかと考えると、大してと言うより全く変わっていないように見える。
青春小説の枠組みとしての要素である、挫折や成長が欠如している。
結局、「親譲りの無鉄砲で」つまらぬ思いをしに行った、ということだろう。
ここにあるのは、江戸時代の名残と明治時代の新しい価値観が、主人公である坊ちゃんにおいて衝突している構造が読み取れる。
坊ちゃんの心情的としては、年長者を敬い、理屈よりも義理人情を重視する価値観を持っている。
だが、新しい価値観である西洋美術には興味を示さない。
必然性や積極性も無く、新しい価値観に基づいた教師という職業になり、教師の代表である赤シャツを否定し、生徒たちとは対立しようとし、結局のところ、街鉄の技手という職業についてしまう。
社会的には新しい価値観の中で生きるしかないが、清という下女と暮らし、私生活での価値観までは捨てたりしない。
坊ちゃんの姿は、近代化する明治の社会において、二重の価値観を抱えたままに生きてゆく人々の姿のひとつに見える。
そして、そのときそこにいた夏目漱石自身のありうべき姿のようにも思える。
実際の漱石はむしろ、帝大の教授という知識人として、坊ちゃんとは異なる人生を過ごしたと思われるが、こんな人生も有り得たという、漱石自身の仮想の姿が坊ちゃんに投影されているような気がする。
もしかすると漱石にとって、内面は坊ちゃんで、知識人は仮の姿だったのかもしれない、と考えるのは穿ち過ぎだろうか。