雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

蛇を踏む/川上弘美

なかなか良いタイトルだと思う。
図書館の棚を眺めていて、つい手が伸びてしまった。
なので、著者については、表紙の裏に書かれていたこと以外、何も知らない。
その本を何の先入観も無しに読むことができるというのは、ある種の幸せではないだろうか。
素の状態で対峙できるとでも言おうか。
あるいは、ノーガード戦法のように、その本がパンチを繰り出してくるのを待つとでも言おうか。
ともあれ、読み始めて、何だか得体の知れないものに触れてしまった時の様な、感覚を覚える。
何の小説なのか。
物語に意味を求めてしまうのは、悪い癖だ。
ただ、言葉に身を委ねる方が、物語を楽しめる。
意味を汲み出す前に、エクリチュールを、シニフェを味わう。
一体何の話なのか。
表題作は、蛇が化けた?自称の母につきまとわれる物語。
次の「消える」はそれぞれの家族が持つ、特異な現象の話。
最後は「惜夜記」で、同じような発想の細かな話の寄せ集めといったところか。
あとがきによると、作者の川上氏は、これらを「うそばなし」と称している。
そこでようやっと、腑に落ちた気がする。
不定形の想像力をどうにか形に整えたような物語なのだ。
それでも、川上氏の言葉に、物語世界に、鷲掴みに掴まれてしまったのだった。
強いて言うなら、ロベール・デスノスの「自由か愛か」、あるいは、アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」あたりに近いと思った。
だが、現実に対峙する想像力ではなく、平行の位置に存在する想像力のような在りかたが、シュルレアリスムとは決定的に違う。
そしてその決定的な違いに、魅力を感じている。


蛇を踏む (文春文庫)

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