雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ウォー・フィーバー 戦争熱/J・G・バラード

本棚を眺めていて、何となく目に留まったので、読んでみる。
奥付を見ると、1992年に出版されたようだ。(ということは、20年前か…)
この本は、バラードの1975年から1990年に発表された短編が収められている。
表題作の「ウォー・フィーバー」は、どことなく伊藤計劃のテイストを感じるが、むしろこちらが本家だろう。
20年経った今にして読み返すと、どこかで読んだような気がしてくるのだけれど、むしろ逆で、バラード的なるものが20世紀末以降、生活の中に蔓延していたのだと思う。
それは一種の悪夢のようなイメージに他ならないのだけれど、例えば、「第三次世界大戦秘史」では、強制的に生かされた(或いは、生ける屍と化した)ロナルド・レーガンの微笑と、経済動向の連動と、4分で終結した第三次世界大戦が、戯画的に描かれている。
しかし、バラードの描いたイメージが、ブッシュ親子、湾岸戦争イラク戦争昭和天皇崩御という、笑うに笑えない現実として立ち現れてしまった。
パロディとしての物語が、シリアスな現実に追いつかれたのだろうか。
バラードの先見性を評価すべきなのだろうか。
そう思うと、この短編集よりも現実の方が、笑えないくらいに奇妙なものになってしまったと思えてくる。
もうひとつ。
実験小説とでも言うべきジャンルの作品が幾つか収められている。
例えば、「尋問事項に答える」では質問は明かされず、回答だけが提示され、そこに不在の物語を想起させようとしている。
それは、物語は作者と読者の共犯的関係の産物なのだ、ということだろう。
(確か、ボルヘスもそんなことを言っていたっけ)
或いは、18語の文に対する注釈である「精神錯乱にいたるまでのノート」。
或いは、不在の本の索引である「索引」。
これらは、まだ現実には追いつかれていない。


ウォー・フィーバー―戦争熱

ウォー・フィーバー―戦争熱

文庫ではこれだったはず
第三次世界大戦秘史 (福武文庫)

第三次世界大戦秘史 (福武文庫)