雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

本を読む理由

なぜ本を読むのか。
読みたい本があるから読んでいる、というのもあるのだけれど、それだけではない。
それは、曰く言い難いのだけれど、読みたいだけでは続きはしない。
なぜ山に登るのかと訊かれて、そこに山があるからと答えた登山家がいたようだが、そこに本があるから本を読むのではない。
そこに本があろうと読むときもあれば読まないときもある。
だいたい読んだ本より、読まない本のほうが圧倒的に多い。
もし幽霊が存在したら、この地上には幽霊であふれかえっているのではないか、と言う話に似ている。
今の生者より、過去の死者の方が圧倒的に多いのではないか、という訳なのだが、今の生者のほうが圧倒的に多いのだという意見もあるようだ。
いや、この話は似てはいなかった。
なぜ本を読むのか、という話だ。
読んだ本が読みたかった本だとしても、読まなかった本は読みたくなかった本なのではない。
読みたいと読みたくないの間には、どうでもいいという状態がある。
読みたい本は読んで知るし、読みたくない本は既に何かを知っていて、読みたくないのだ。
つまり、本を読むか読まないかは、知ることと関係があるようだ。
既知であること、未知であることは、本を読むことと関わりがあるのだけれど、どうでもいい状態は本を読むことと関係が無い、とするなら、どれだけ何かを知っていて、何かを知りたいと思っているかが、本を読むための原動力なのだろうか。
だが、大抵のことはどうでもいいのに、なぜ本を読むのだろうか。
やはり、ただ本を読んでいたいのだと思う。
何もかも判ったふりをして、悟り澄ますつもりではないけれど、本を読むことに何の理由も無い。
本を読むことは宿命なのではないだろうか。
あるいは病なのかもしれない。
そして今日も本を読んでいる。